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日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。 終期については青森県外ヶ浜町大平山元I遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。 日本列島での人類の足跡も9~8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る[1]。 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。
概要日本列島の形成日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
動物相日本列島には、幾度となく北、西、南の陸狭(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。 2万年以前の日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群やそれ以前からいたものが棲息していたが、最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。 植生更新世も中頃を過ぎると寒冷な氷期と温暖な間氷期が約10万年単位で繰り返すようになり、植生の変化もそれに対応するように規則的な変化を繰り返すようになった。 氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期とそれ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がっていった。暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。 一方、姶良Tn火山灰 (AT) は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めた。このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼした。たとえば、それまでは全国均一的な石器文化を保持していたものが、地域的な特色のある石器文化圏、つまり、西日本と東日本というような石器文化圏成立に影響したとの可能性をが考えることができる。 日本列島において氷期から間氷期への急激な変化は、更新世から完新世への変化も急激であり、気候変化、海面変化、植生を含めた生態系の変化も急激であった。後期旧石器時代はコナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった[4]。 石器前・中期旧石器の発掘日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。 後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。これらの論争は「丹生論争」「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。 1970年代にはいると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。 旧石器捏造事件;1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に「発見」された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされた。しかし、2000年11月に、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、今のところ、前・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されている。 2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」という報道がなされたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良Tn火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。2009年現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。 後期旧石器の特徴後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、およそ4万年前に始まり、縄文時代へと移行する1万5000年前までの約2万5000年間続いた。遺跡は北海道から九州まで約5000ヵ所確認されている。後期旧石器時代の前半と後半の区分は、日本列島を覆う広域火山灰である姶良Tn火山灰(29000CalBP[5])の降灰を目安にしている。 前半期に前葉の石器群は、台形様石器と局部磨製石斧に代表され、地域色はまだ明瞭でなく、列島全域で台形様石器群[6]が展開する。前半期後葉になると東日本においては発達した縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立する。一方、西日本では横長剥片剥離技術が生み出され、次に発展する「瀬戸内技法」の基礎を形成する。つまり、石器技法の地域的特性がみられはじめる。 後半期には、その傾向が明確になり、地域性の確立した時期といえる。ナイフ形石器は、多様な形態に分類でき、その先端は槍に付けられたと推定されている。そして、日本各地で特色ある特徴がみられる。それはおよそ2万9000年前のことである。 後述する高原山黒曜石原産地遺跡群では3万5千年前の時期に特徴的な黒曜石製の台形様石器が出土している。この地域で後期旧石器時代早期から縄文時代早期にかけて脈々と石器が作られ続けていたことや、広く南関東や遠くは静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡まで運ばれ使用されていたことが分かってきた[7]。
こうした変化は、石器群の形式変化ばかりでなく、移動生活や生業活動にも変化がみられ、前半期には、それまで分散していた遺跡が、河川流域へ密集するようになり、遺跡数も急増し、人口が増加したと推定できる。さらにそうした社会変化を促す背景となったのは気候や生態系の変化なども関係しているものと考えられる。およそ2万9000年前を過ぎる頃、地球規模で寒冷期を迎え、やがて2万5000年前を前後する最終氷期最寒冷期(LGM)へ突入していった。日本列島においては、2万9000年前に姶良カルデラが噴火し、列島全域をAT火山灰が降灰し、生態系に甚大な影響を与えた。 ナイフ型石器群と細石刃石器群がほぼ列島内全域に展開したのに対し、尖頭器石器群は東日本でも特に中部地域・関東地域において地域的な発展を見せる。中部・関東地域においては、ナイフ型石器群が終わりを告げ、細石刃石器群が登場するまでの後半期後葉に、木の葉型で大きさにすれば10センチ以下の尖頭器が制作される。長野県和田峠[8]、栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では良質な黒曜石を産出した。高原山では旧石器時代から縄文時代早期にかけて(1万2千~1万5千年前)のものとみられる国内最大級と推定される長さ14cmの尖頭器及び製作場所が2008年度の調査で発見された[9][10][11]。これまで石器を作っていた場所は発見されておらず、貴重な発見である。これらの場所で製作された尖頭器が関東の諸遺跡に運ばれ使用されたことが分かっている。尖頭器石器群が中部山岳地帯で発展したのは、そこに生息する動物の狩猟に適した石器であったと推測できる。 後半期の終期には、日本列島全域に細石刃石器群が展開する。それは北海道から東北日本にかけてと中部・関東以南から九州にかけての西日本にかけての2地域に分かれ、地域色を見せる。前者は、「湧別技法」[12]といわれ荒屋型といわれる特徴的な彫刻刀形石器を伴う。後者は「矢出川技法」[13]と呼ばれ、列島の南から広がっていく。こちらは彫刻刀形石器を伴わない[14][15]。 高原山黒曜石原産地遺跡群発見・発掘がもたらすもの遺跡の発見者である田村隆(千葉県立中央博物館歴史学研究科長)は、当時の人間の知的レベルは低く石材は拾うしかないという通説から、20年もの間、千葉県出土の石器の産地を求め関東地方の河原を探し続けたが手がかりは薄く、国武貞克(城西大講師)の助言により2002年に石器そのものの原産地の探索を始めた。その結果2005年に発見された当遺跡群[16]からは、従来の後期旧石器時代の人類の能力に対する先入観・概念を覆すような事実が次々と明らかになっている。
今回の両名の活動による当遺跡の発見がもたらす次の新しい遺跡の発見の可能性について「今まで思い込みのため見えなかったものがあるはずですから」と藤本強・東京大名誉教授(考古学)がコメントしている。 住居と墓制日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。 日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。 旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうした中にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。 住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。 調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことが分かる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。 そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。呪術的なものとして作られたらしい高さ約9センチ、幅2~3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。集落の規模と構成はまだ分かっていない。 土器の出現詳細は「土器」を参照 日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていないが、一応北方から伝播してきたと考えられている。しかし特に証拠があるわけではない。旧石器時代の終末に、九州では豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。 木の文化石器時代の文化といえば、石器を思い浮かべるが、日本列島の豊かな森林資源を忘れてはならない。これまでに、板状の木製品と木の柱を使った住居跡が見つかっている。 板状の木製品は、明石市西八木遺跡で約12~5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品(加工痕のある木片)が出土している。この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ4ミリで、少なくとも2種類の石器で加工されている。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということになり、旧人が工作した板ということになる[18]。 住居跡は、大阪藤井寺市はさみ山遺跡で約2万2000年前の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居が検出された。外周に柱穴を持つもので径10センチぐらいの材を20本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、その上を草や皮で覆った構造が考えられる。この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製のナイフ形石器や翼状剥片が約200点も一緒に出土している[19]。 竪穴住居といえば縄文時代や弥生時代の住居形態を想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分かってきた。木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具を作り、生産効率を上げることが出来る。径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそう変わらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか[20]。 食料の獲得
旧石器時代の人びとの狩猟のようすを示すジオラマ(兵庫県立考古博物館)
旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。 漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段を持っていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。 縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたというから、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからである。 更新世(洪積世)の人類化石日本列島は火山列島とも呼ばれるように更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人骨・獣骨化石が残る例がほとんどない。こうした中でもこれまで洪積世人類化石として知られていた例も多かった。しかし、C14年代測定法や再検討の結果、それらの多くが洪積世人類化石の地位を失い、静岡県の浜北人と沖縄県の港川人とが更新世人類とされている。 浜北人浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960~1962年に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の人骨化石である。上・下2つの地層から出土した。それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。 港川人1967年~1969年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の港川採石場の石灰岩フィッシャーで実業家・大山盛保によって人骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。上部港川人骨と呼ばれている。年代はおよそ1.2万年前と考えられている。 1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体を数え、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ているところが目立つ。頭蓋では、骨が厚く、前頭骨が小さく、脳頭蓋の下部が幅広いなど独自の特徴でかなり原始的である。また、男性の推定身長は153~155センチメートルで、上半身は華奢であり、かなり小柄である。 山下町洞穴人沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6~7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。 石垣島・白保竿根田原洞窟の人骨2010年2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20~30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した[21][22]。 その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石 これまで更新世人類と思われていた人類化石
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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