日本の書道史

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日本の書道史(にほんのしょどうし)とは、有史以来、現在までの日本における書道歴史である。

この記事では時代ごとに、その背景、書風、筆跡書人、教育など書に関連した事跡を記す。

目次

概観

日本の書道漢字の伝来に始まる。

写経と晋唐書風の流行

つづいて仏教が伝来し飛鳥時代聖徳太子奈良時代聖武天皇によって写経が盛行し、日本の書は急速に発展する。また遣隋使遣唐使により、中国文化が直接日本に招来するようになり、晋唐の書風[1]が流行した。特に平安時代初期の嵯峨天皇は唐風を好み、入唐した空海橘逸勢らとともに晋唐の書に範をとった。

和様の完成と墨跡の勃興に始まる書の二極分化

この三筆は模倣だけに止まらず、中国風を日本化しようとする気魄ある書を遺した。そして平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され、国風文化の確立によって「かな」が誕生した。さらに三跡によって漢字が和様化され、和様書の完成期を迎える。この和様書は鎌倉時代から分派し、さまざまな書流を形成した。またこの時期に中国から禅僧が来朝し、日中両国の禅僧によって再び中国の書風が注入された。この禅僧による書は墨跡と呼ばれ、江戸時代から唐様として継承され発展した。一方、和様は尊円流江戸幕府の公用書体として採用され庶民にも広まった。かくして日本の書は唐様と和様に二分された。

六朝書道の盛行と上代様の復興

明治時代に入り、この時代の実権者の多くが漢学の素養があったことから唐様の書風に傾いていった。そして清国楊守敬六朝碑帖を携えて来日し、日本の書道界に大きな衝撃を与え、この影響により巌谷一六松田雪柯日下部鳴鶴らを中心に六朝書道が盛んになった。 これにともない漢字は和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新されたが、かなは明治時代中期に伝来の文化遺産の復古が叫ばれ、多田親愛大口周魚小野鵞堂を中心に上代様が復興された。そして日下部鳴鶴西川春洞を中心に今日の漢字書道界の基礎が造られ、かな書道界においては小野鵞堂が多くの門人を育成した。

近代書壇史の始まりと現代書の出現

大正時代末期、当時のほとんどの書家を結集させた書道団体が誕生し、年1回、大展覧会を開催した。会名を「日本書道作振会」としたこの団体は豊道春海の尽力により結成し、ここに近代書壇史が始まった。そして離合集散の結果、「泰東書道院」・「東方書道会」・「大日本書道院」の安定した大規模な団体の結成に至る。「大日本書道院」は日下部鳴鶴門の比田井天来を中心とする団体で、この天来の門弟たちによって現代書が出現する。

飛鳥時代以前

朝鮮半島を経由して漢字や仏教などの中国文化が将来した。

漢字の伝来

漢委奴国王印 印影

日本書紀』と『古事記』には、百済王の使者、阿直岐(古事記には阿知吉師)が経典に通じていたので、応神天皇15年(284年)に皇太子、菟道稚郎子の師となり、その阿直岐の紹介により応神天皇16年(285年)2月に入朝した王仁(古事記には和邇吉師)が『論語』10巻、『千字文』1巻を献上したと記されている[2]

この時代に将来した筆跡
  • 貨泉
紀元8年、の皇帝の外戚である王莽が漢の国を奪って「」王朝を建てた。この新の時代にだけ造られた銅貨が日本の弥生時代古墳から発見された。この銅貨には「貨泉」という篆書体の文字が鋳込まれていたので貨泉(かせん)と呼ばれる。『漢書』「食貨志」によると、貨泉は天鳳元年(14年)に鋳造され、新が滅亡するまでの12年のあいだ流通したという。日本には1、2世紀のころに伝わったと考えられている[3]。この「貨泉」の文字が日本で出土した文字の遺品中、最古の製造物とされている。
  • 漢委奴国王印
江戸時代後期の天明4年(1784年)、筑前国(現在の福岡県)の志賀島金印が出土した。印には「漢委奴国王」と刻してあり、黒田藩儒者亀井南冥は『後漢書』の記事に符合するとした。それによると、この漢委奴国王印後漢建武中元2年(57年)光武帝奴国の使者に賜わったとあり、先の貨泉に次いで古い年代のものとなる。
将来した筆跡一覧
筆跡名 年代 書体 現所在
貨泉(硬貨) 8年 - 23年 篆書 国立歴史民俗博物館
漢委奴国王印 57年 篆書 福岡市博物館
石上神宮七支刀 369年頃 楷書に近い 石上神宮

仏教の伝来

詳細は「仏教公伝」を参照

欽明天皇13年(552年)、漢字と同様に朝鮮半島を経て仏教大乗仏教)が伝来し、仏典の書写が始まる。

この時代の筆跡
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
江田船山古墳出土大刀 不明 438年 隷書に近い
三国時代の鏡銘風
東京国立博物館
隅田八幡神社人物画像鏡 不明 443年または503年 隷書に近い 隅田八幡神社
稲荷山古墳出土鉄剣銘 不明 471年または531年 楷書 文化庁埼玉県立さきたま史跡の博物館保管)

飛鳥時代

『法華義疏』(部分)
伝聖徳太子筆

聖徳太子が仏教を尊信し法隆寺を建立するなど、仏教の興隆に伴い写経が盛んになった。また、『日本書紀』に、「推古天皇18年(610年)3月、高麗王曇徴を貢上す。曇徴よくを作る」とあるように、曇徴が紙や墨の製法を伝えたことにより、書道は急速に発展した。日本の書道は百済よりの六朝書道から始まるが、聖徳太子が遣隋使を派遣するなど、中国文化が朝鮮半島を経由せずに直接日本に将来されるようになり、の書の影響が現れるようになる。聖徳太子の自筆とされる『法華義疏』4巻は六朝風であるが、『金剛場陀羅尼経』が唐風であるのはその変遷の好例である。

この時代に書名のあった人物

詳細は「日本の書家一覧#飛鳥時代」を参照

この時代の筆跡
  • 法華義疏(ほっけぎしょ)
聖徳太子41から42歳の書とされ、金石文を除いた現存する書跡で最も古い。もと法隆寺に伝わり、今は帝室の御物となっている。各巻とも料紙は黄楮紙で、白紙が所々にわずかにまじっている。本文中には削字や貼紙や継紙があり、推敲された草稿であることが分かる。1紙に29行、1行23から24字で書かれ、書風は六朝写経に似ていて、字体は扁平で波法が美しく軽妙で筆力がある。
  • 金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)
天武天皇14年(686年)の写経で、日本の写経では最古のものである。河内国志紀郡の仏教信徒が僧宝林の教化によって作ったもので、書風は初唐の三大家の一人である欧陽詢の子、欧陽通の『道因法師碑』に似ている。素紙、縦27cm、横670cm。
筆跡一覧
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
法隆寺金堂薬師如来光背銘 不明 607年頃 楷書六朝以後の写経体 法隆寺
法華義疏 聖徳太子 615年頃 行草、六朝写経体 御物
法隆寺金堂釈迦如来光背銘 不明 623年頃 楷書、北魏 法隆寺
宇治橋断碑 不明 646年 楷書、張猛龍碑 放生院常光寺
船首王後墓誌 不明 668年 楷書、雁塔聖教序 三井記念美術館
山ノ上碑 不明 681年 隷書、古隷風 群馬県高崎市
金剛場陀羅尼経 不明 686年 楷書、道因法師碑 文化庁
長谷寺銅板法華説相図 不明 686年または698年 楷書、欧陽詢風 長谷寺
那須国造碑 不明 700年 楷書、張猛龍碑風 栃木県笠石神社
浄名玄論 不明 706年 楷書、北朝 京都国立博物館
王勃詩序 不明 707年 行書、欧陽詢風 正倉院
法隆寺五重塔初層天井組木落書 不明 8世紀初め 楷書(万葉仮名 法隆寺

奈良時代

楽毅論』(部分)
光明皇后臨

元明天皇が都を平城京に定めてからの時代で、中国では中唐の時代に当る。遣唐使をはじめ、唐との交通が盛んになり多くの中国文化が伝わった。特に聖武天皇天平年間は奈良文化の最盛期であり、書道の発展が著しかった。この時代の書風は、六朝風の外に、晋唐の書風[1]が書かれ、王羲之の書法が学ばれた。光明皇后による王羲之の『楽毅論』の臨書が有名で正倉院に現存する。なお『万葉集』では「羲之」や「大王」を「テシ」と読ませており、この時代、王羲之が手師すなわち能書の代名詞であったことが分かる。

写経の盛行

聖武天皇は仏教を尊信し、奈良の東大寺などを建立し、国家事業としての仏教興隆を図った。これに伴い写経が盛行し、写経所を設けて写経生を養成し、写経体が生まれるに至る。この時代の写経の遺品は東大寺戒壇院に伝来した『賢愚経』(けんぐきょう、伝聖武天皇宸翰)をはじめ数多く現存する。

書道教育

律令制度下の教育機関である大学寮書博士という役職が設置され、後に「書道」と呼ばれる学科が形成されたが、早い段階で衰退している。

この時代に書名のあった人物

詳細は「日本の書家一覧#奈良時代」を参照

この時代の筆跡
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
多胡碑 不明 711年 楷書、鄭道昭 群馬県多野郡
長屋王発願大般若経(和銅経) 67人の写経生 712年 楷書、 根津美術館ほか
太安万侶墓誌 不明 723年 楷書 文化庁奈良県立橿原考古学研究所保管)
金井沢碑 不明 726年 隷書 群馬県高崎市
絵因果経 不明 729年 - 748年 楷書 東京芸術大学上品蓮台寺醍醐寺ほか
小治田安万侶墓誌 不明 729年 楷書 東京国立博物館
雑集 聖武天皇 731年 楷書、褚遂良風・王羲之 正倉院
聖武天皇勅願一切経 治部卿門部王 734年 楷書、唐風 檀王法林寺ほか
賢愚経(大聖武) 伝聖武天皇 740年以後 楷書、六朝風 東大寺ほか
光明皇后発願一切経(五月一日願経) 不明 740年 隋唐風 正倉院ほか
紫紙金字金光明最勝王経(国分寺経) 不明 741年 楷書 奈良国立博物館高野山龍光院ほか
楽毅論 光明皇后 744年 楷書、王羲之風(臨書) 正倉院
杜家立成雑書要略 光明皇后 不詳 行書、王羲之風 正倉院
紺紙銀字華厳経(二月堂焼経) 不明 745年頃 楷書、初唐風 東大寺ほか
韓藍花歌切 不明 751年頃 行書(万葉仮名) 正倉院
写経所食口帳断簡 不明 8世紀頃 行書 フォッグ美術館
東大寺献物帳 不明 756年 - 758年 楷書 正倉院
法隆寺献物帳 不明 756年 楷書 東京国立博物館
正倉院万葉仮名文書2通 不明 762年以前 行草(万葉仮名) 正倉院
多賀城碑 不明 762年 楷書、六朝風 宮城県多賀城市
石川年足墓誌 不明 762年 楷書 個人蔵
称徳天皇勅願一切経(神護景雲経) 不明 768年 楷書 正倉院ほか
仏足跡歌碑 不明 770年頃 楷書(万葉仮名) 薬師寺

平安時代

初期

風信帖』(部分) 空海筆

延暦13年(794年)都が平安京に遷り、政治・文化の中心地となった。聖武天皇が奈良時代の天平文化の中心者であったと同様に、この時代の弘仁文化は嵯峨天皇を中心に大きく発展した。平穏な政治情勢のもと、空海橘逸勢をはじめ多くの名家が輩出し、名筆が遺存した時代である。

哭澄上人詩』(部分)嵯峨天皇宸翰
晋唐の書の流行と三筆

延暦23年(804年)に遣唐使が派遣され、最澄、空海、橘逸勢らが入唐した。このころ、唐の文化は既に衰頽期に入っており、彼等は当時の新風を模せず、晋および初唐の書を自主的に摂取し、王羲之や唐人の書跡などを日本に伝えた。晋唐の書[1]は日本の宮廷社会で愛好され、ことに嵯峨天皇は唐風を好み、宮城(きゅうじょう)の門額の名称を唐風に改めた。また自らも門額を書き、当時書名の高かった空海、橘逸勢にも同様に門額を書かせた。
この3人(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)は平安時代初期の第一の能書として三筆と称された[4]。特に空海は日本の王羲之ともいうべき不世出の能書であり、その重厚で装飾的な書風は大師流と称されている。また、この三筆の時代に特筆すべき能書として最澄がおり、嵯峨天皇宸翰に最澄の入滅をなげき悲しんだ草書体の『哭澄上人詩』(こくちょうしょうにんし)がある。

この時代に書名のあった人物(初期)

詳細は「日本の書家一覧#初期」を参照

この時代の筆跡(初期)
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
三十帖冊子 空海 805年 楷行草 仁和寺
請来目録(越州録) 最澄 805年 楷書、王羲之 延暦寺
羯磨金剛目録 最澄 811年 行書、王羲之風 延暦寺
風信帖 空海 812年頃 行草、王羲之風 東寺
灌頂歴名 空海 812年 行書、王羲之風・顔真卿 神護寺
金剛般若経開題 空海 813年 草書 京都国立博物館奈良国立博物館ほか
久隔帖 最澄 813年 行書、集字聖教序 奈良国立博物館
興福寺南円堂銅燈台銘 橘逸勢 816年 楷書、晋唐風[1]
般若心経 嵯峨天皇 818年 楷書、欧陽詢風
崔子玉座右銘 空海 820年頃 草書 高野山宝亀院ほか
哭澄上人詩 嵯峨天皇 822年 草書、大師流 個人蔵
光定戒牒 嵯峨天皇 823年 楷行草、欧陽詢風・大師流 延暦寺
李嶠百詠断簡 伝嵯峨天皇 不詳 行書、欧陽詢風 御物
伊都内親王願文 伝橘逸勢 833年 行草、王羲之風・唐風 御物
三聚浄戒示 円仁 848年 - 860年頃 行書、橘逸勢風 園城寺
充内供奉持念禅師治部省牒 藤原関雄 850年頃 行書、唐風 東京国立博物館
太政官給公験牒 時原春風 866年 楷書、唐風 園城寺
藤原有年申文 藤原有年 867年 草書・万葉仮名草仮名・かな 東京国立博物館
神護寺鐘銘 藤原敏行 875年 楷書、不空和尚碑 神護寺

中期

玉泉帖』(部分)
小野道風書

宇多天皇が遣唐使を停めて以来、日本の書道は日本趣味を増した。中でも注目すべきは、かなの出現である。かくて、かなと漢字との調和が日本書道の大きな課題として提示され、これに応じて和様書道が完成された。その完成者は、小野道風である。彼の後、藤原佐理藤原行成と、いわゆる三跡が相継ぎ、黄金時代を現出したのが中期の特色である。

かなの成り立ち

漢字の伝来により、漢字を使って日本の言葉を記す努力が始まり、この表記法は時代とともに変化した。『山ノ上碑』(681年)では、漢字を日本語の語順に並べ、「送りがな」や「てにをは」など、かなの部分を取り除いた碑文となっている。『古事記』(711年)では、日本語の発音を表現するために、漢字の音と訓を交えて読ませる工夫が施されている。

高野切第一種』(部分)
真仮名(万葉仮名)

奈良時代、天皇の命令を記した宣命という文書では「送りがな」や「てにをは」を漢字の音を借りて小さく書き入れている。「の」には「乃」、「は」には「波」、「を」には「乎」などを一定して使っている。このように楷書体や平易な行書体程度の漢字を使って日本語のかなの部分に当てはめて書き記したものを真仮名(まがな)と呼んだ。『万葉集』でこの方法がよく用いられたことから、後世(江戸時代から)万葉仮名と呼ぶようになった。そして奈良時代の終わり、『正倉院万葉仮名文書』が残された。

正倉院万葉仮名文書

『正倉院万葉仮名文書』(しょうそういんまんようがなもんじょ)とは、一字一音の万葉仮名ばかりで書かれた文書2通のことで、正倉院の中倉に伝わる紙背文書である。2通のうちの1通(文頭が「和可夜之奈比乃(わがやしなひの)…」)の紙背には、天平宝字6年(762年)1月のものと考えられる記録『造石山寺所食物用帳』が記されているため、この仮名文書は762年より以前のものであることがわかる。もう1通(文頭が「布多止己呂乃(ふたところの)…」)の紙背には、天平宝字6年(762年)1月30日と2月1日付の『造石山寺公文案』という文書があり、筆者は異なるものの、前の1通と同時期に書かれたことがわかる。両文書とも行書体と草書体を交えて書かれており、一つの音には一つの字を統一して使い、あまり画数の多い字は使っていない。宣命体の文書の読み書きには漢文の素養を必要とするが、この文書は漢字を意味のある文字と認識しておらず、現在の「かな」の感覚に近い使い方をしている。また筆者は能書ではなく、一般の人の書きぶりである。

仮名文字数の減少[5]

奈良時代は上代特殊仮名遣のため音の数は87音[6](最大で88音[7])あり、各音に対して数種から十数種の漢字をあてたため、1000字近くの万葉仮名があった。その後、画数が少なく書きやすい字に淘汰されていったことや、甲類・乙類[8]の混合で音の数が少なくなった[9]ことにより、平安時代後期には約300字に字母が減少した[10]

草仮名(草の手)、片仮名

文字数の減少と平行して字体の簡略化が進み、平安時代初期、万葉仮名を草書体で美しく表現した草仮名(そうがな)が使われた。また、主として万葉仮名の一部を用いて片仮名が誕生した。草仮名の筆跡として、『秋萩帖』(あきはぎじょう)、『綾地歌切』(あやじうたぎれ)などがある。草仮名は草の手(そうのて)とも呼ばれた[11]

『堤中納言集』(部分)
紀貫之
女手(平仮名)

平安時代中期になると、草仮名をさらに簡略化して記号化された平易な平仮名が誕生した。この時代、女性への差別がつよく、女性の漢字学習が禁止されていたため、万葉仮名を男手(おのこで)、平仮名を女手(おんなで)といった。しかし、このころの貴族の男女の交際は専ら手紙であり、男性も女性へ送る手紙は女手で書いた。女手の書きぶりでその人の評価が決まることや和歌の流行などから、かな書道の全盛期を迎えるに至る。

この時代に書名のあった人物(中期)

詳細は「日本の書家一覧#中期」を参照

この時代の筆跡(中期)
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
周易抄 宇多天皇 897年頃 行書・草仮名片仮名 宮内庁
紀家集 大江朝綱 919年 行草、唐様 宮内庁書陵部
智証大師諡号勅書 小野道風 927年 行書、和様 東京国立博物館
屏風土代 小野道風 928年 行書、和様 三の丸尚蔵館
玉泉帖 小野道風 不詳 楷行草、唐様・和様 三の丸尚蔵館
継色紙 不明 11世紀末前半 草仮名・かな 諸家分蔵
秋萩帖 不明 10世紀末頃 草仮名 東京国立博物館
虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名消息 不明 967年頃 かな 石山寺
詩懐紙 藤原佐理 969年 行書、和様 香川県立ミュージアム
国中文帖 藤原佐理 982年 草書 春敬記念書道文庫
離洛帖 藤原佐理 991年 草書 畠山記念館
綾地歌切 伝藤原佐理 不詳 草仮名 畠山記念館
稿本北山抄紙背仮名消息 不明 11世紀初頭 かな 京都国立博物館
御堂関白記 藤原道長 998年 - 1021年 楷行・かな 陽明文庫
北山抄 藤原公任 1013年頃 行草 京都国立博物館
巻子本和漢朗詠集 伝藤原公任 不詳 行草 三の丸尚蔵館
白楽天詩巻 藤原行成 1018年 行草、和様 東京国立博物館
三宝感応要録紙背仮名消息 伝藤原行成 不詳 かな 京都鳩居堂
升色紙 不明 11世紀後半 かな 諸家分蔵
関戸本古今集 不明 11世紀後半 かな 個人蔵ほか
粘葉本和漢朗詠集 不明 不詳 行草・かな 三の丸尚蔵館
高野切一種 不明 不詳 かな 土佐山内家宝物資料館ほか
高野切二種 源兼行(推定) 不詳 かな 毛利博物館ほか
高野切三種 不明 11世紀中頃 かな 諸家分蔵
寸松庵色紙 不明 11世紀後半 かな 諸家分蔵
藍紙本万葉集 藤原伊房 不詳 行書・かな 京都国立博物館
堤中納言集 紀貫之 不詳 かな

後期

『本阿弥切』(部分)

平安時代末期は院政の開始と武家の台頭による貴族社会の混乱衰頽を反映して、優美なものから個性的意思的な傾向を示し、華麗な装飾写本が盛行した。代表される書に『西本願寺本三十六人家集』がある。この書は三十六歌仙和歌を能書20人が分担して書写したが、筆者が明らかなのは藤原道子藤原定実藤原定信の3人だけである。この3人を中心に宮廷の能書が活躍した。なお、この『西本願寺本三十六人家集』は明治29年(1896年)大口周魚西本願寺の書庫から発見したものである。

糟色紙
藤原定信
世尊寺家

世尊寺家は藤原行成を祖とし、行経(2代目)、伊房(3代目)が平安中期に、定実(4代目)、定信(5代目)、伊行(6代目)が平安後期にと、歴代能書を輩出し、後世、世尊寺流と称された。世尊寺家は8代行能から世尊寺の家名を名乗り、17代行季で終焉となる。6代目の伊行は日本最初の書論書『夜鶴庭訓抄』を遺している。

装飾経の盛行

写経も盛行したがその経典の多くは『法華経』であり、美しい装飾経に仕上げられた。その代表作は『久能寺経』と『平家納経』で、『久能寺経』中の「譬喩品第三」の筆者は藤原定信である。なお、藤原定信は一切経5048巻を42歳から64歳までの23年間で完成させた。

この時代に書名のあった人物(後期)

詳細は「日本の書家一覧#後期」を参照

この時代の筆跡(後期)
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
元暦校本万葉集 不明 1089年頃 かな 東京国立博物館
本阿弥切 不明 12世紀初頭 かな 京都国立博物館、三の丸尚蔵館ほか
巻子本古今集 藤原定実 1110年頃 草仮名 三の丸尚蔵館
西本願寺本三十六人家集 藤原道子
藤原定実
藤原定信など20人
1112年 かな・草仮名 西本願寺(断簡「石山切」は諸家分蔵)
元永本古今集 藤原定実 1120年 草仮名・かな 東京国立博物館
補任切 藤原俊成 1124年 行書 MOA美術館
久能寺経 「譬喩品第三」は藤原定信 1141年頃 行書 静岡・鉄舟寺ほか
葦手下絵和漢朗詠集 藤原伊行 1160年 行草・かな 京都国立博物館
平家納経 不明 1164年 楷書 巌島神社
書状 藤原忠通 1164年 行草 陽明文庫 
今城切 藤原教長 1177年 かな 諸家分蔵
扇面法華経冊子 不明 12世紀中頃 楷書、和様 四天王寺、東京国立博物館ほか
源氏物語絵巻橋姫>詞書 藤原教長 不詳 かな 徳川美術館
源氏物語絵巻<横笛>詞書 不明 不詳 かな
日野切 藤原俊成 1188年 かな 諸家分蔵
中務集 西行 1180年頃 かな 出光美術館

鎌倉時代

更級日記(部分)
藤原定家

源頼朝鎌倉幕府を開いてからの時代で、中国ではの時代に当たる。政権が公家から武家に移り、浄土宗真宗日蓮宗などが興って武家と僧侶が権力を振るった時代である。禅僧の来朝により、日本と中国両国の禅僧によって禅様が盛行し、その簡明高雅な書法は力強く、和様書道界に清風を注いだ。和様と禅様とが並び行われた時代、また、文字の美の追求から実用性を重視する変革がなされ漢字かな交じり文が一般化された時代でもある。

禅様(墨跡)

禅様とは宋代の書風で、中国の禅僧の間に流行した蘇軾黄庭堅米芾張即之などの書を指し、晋唐の規範や伝統から解放された自由剛健なもので、奈良朝以来行われた線の軟らかい王羲之風のものとは全く趣きを異にするものである。宋の滅亡後、元が興ったが、禅僧の往来は益々頻繁であった。この禅僧のもたらした中国書法による筆跡を墨跡と呼ぶ。近来では、宋、元時代の他に、江戸時代の黄檗派の禅僧の書風も墨跡と呼ぶのが一般的となっている。

和様、宸翰様

和様の諸流派、すなわち世尊寺流、世尊寺流から平安時代末期より藤原忠通によって分かれた法性寺流藤原俊成による俊成流藤原定家による定家様などの書風が確立し、特に法性寺流がこの時代に入り大流行した。また、鎌倉時代以降の天皇家の書風を後世、宸翰様(しんかんよう)と呼んでいる。宸翰様には伏見天皇による伏見院流後円融天皇らによる勅筆流後柏原天皇による後柏原院流などがある。

この時代に書名のあった人物

詳細は「日本の書家一覧#鎌倉時代」を参照

この時代の筆跡
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
東大寺仏舎利奉納願文 九条兼実 1183年 行書 前田育徳会
熊野懐紙 藤原雅経 1200年 行書・かな、和様 東京国立博物館
熊野懐紙 寂蓮 1200年 行書・かな、和様 陽明文庫
熊野懐紙 藤原家隆 1200年 行書・かな、和様 陽明文庫
熊野懐紙 後鳥羽天皇 1201年 行書・かな、和様 陽明文庫
申文 藤原定家 1202年 行草、定家様 東京国立博物館
明月記 藤原定家 1180年から
1235年までの日記
行書、定家様 冷泉家時雨亭文庫、諸家分蔵
東京国立博物館など
更級日記 藤原定家 不詳 かな 三の丸尚蔵館
消息 九条良経 1203年 行草 京都国立博物館
書状 藤原定家 1207年頃 草書・かな 東京国立博物館
十五首和歌 藤原定家 1227年 行書・かな、定家様 東京国立博物館
普勧坐禅儀 道元 1233年 楷書 永平寺
懐紙 藤原為家 1234年頃 行書・かな、和様 五島美術館
御手印置文 後鳥羽上皇 1239年 行草・かな 水無瀬神宮
春日懐紙 不明 不詳 行書・かな、和様 京都国立博物館
教行信証 親鸞 不詳 行書 東本願寺
宸翰消息 後嵯峨天皇 1246年 行草 仁和寺
立正安国論 日蓮 1269年 行書 法華経寺
後撰和歌集巻二十(筑後切) 伏見天皇 1294年 行草・かな、伏見院流 誉田八幡宮
雪夜作 一山一寧 1316年 草書 建仁寺
看読真詮榜 宗峰妙超 1329年 行書 真珠庵

室町・安土桃山時代

室町時代は乱世で、書道は和漢ともに頽れた。安土桃山時代に入り古筆を愛玩賞味する風潮が興り、わずかに生気を保った。この時代、中国ではからの時代に当たる。

和様

鎌倉時代からこの時代にかけて、三筆三跡を祖とする和様が現れているが、最も勢力があったのは、世尊寺流法性寺流尊円法親王を祖とする青蓮院流持明院基春による持明院流の4派であり、何れも行成の流れをくむものである。また、鎌倉時代の伏見天皇ら諸天皇による宸翰様の後を受けて、この時代の諸天皇も華麗な筆跡を遺している。尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、その青蓮院流は後に御家流と呼ばれ、江戸時代まで日本の書道の中心的書風となった。

禅僧の書(墨跡)
墨跡
寂室元光

この時代も禅宗公家武家帰依を受け発展を続けた。鎌倉時代の禅僧の書は宋風であったが、この時代は元の趙孟頫の影響を受けている。雪村友梅寂室元光らがその代表である。また五山文学が盛行するとその禅僧の書風に日本趣向が加味された五山様が流行した。

古筆、上代様

平安時代から鎌倉時代に書かれたかなの名筆を特に古筆という。安土桃山時代になって豊臣秀吉らは古筆や墨跡で茶室を装飾し、文人などを招いて愛玩賞味するようになった。その風潮はやがて民間にも波及し古筆はますます珍重された。もともと古筆は巻物であったが、それを切断して収蔵するようになり、それぞれを古筆切(こひつぎれ)と呼ぶようになった。これらの古筆の真贋を鑑定する人を古筆鑑定家と称し、当時、古筆了佐は有名である[12]。また、平安時代中期の三跡の書や古筆など完成期の和様書を指して特に上代様と呼び、鎌倉時代以降の書流による和様書と区別している。

この時代に書名のあった人物

詳細は「日本の書家一覧#室町・安土桃山時代」を参照

この時代の筆跡
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
大覚寺結夏衆僧名単 尊円法親王 1335年 行草 御物
梅花詩 雪村友梅 1339年 行草、墨跡(趙孟頫風) 北方文化博物館
消息 尊道法親王 不詳 行草、青蓮院流 御物
十牛之頌 絶海中津 1395年 楷行、墨跡 相国寺
葉室字号 一休宗純 1456年 楷行、墨跡

江戸時代

『十便十宜図(釣便図)』
池大雅書

徳川家康征夷大将軍になってからの時代で、中国ではの時代に当たる。この時代は江戸幕府の文教政策によって書道界にも革新の風が起こり、唐様・和様に大きな変化があった。

唐様

墨跡

この時代の墨跡は、大徳寺妙心寺の禅僧と黄檗派の禅僧の書をいい、米芾趙孟頫文徴明祝允明董其昌の書風である。寛永10年(1633年)の鎖国令によって中国の書籍・法帖などの輸入がきわめて制限されている中、この黄檗僧たちの書は主として儒者文人僧侶などに受け入れられた。黄檗僧の中で隠元隆琦木庵性瑫即非如一の3人は特に能書で黄檗の三筆と称された。

唐様

墨跡の中国書法は北島雪山に伝授され、雪山は唐様の創始者として活躍した。その書法は江戸の門人細井広沢に伝えられ、唐様の流行を確固たるものにした。そして広沢は『観鵞百譚』など多くの著書を残し、唐様推進の原動力となった。その後、寂厳池大雅らが継承し、江戸時代末期には幕末の三筆と呼ばれる市河米庵巻菱湖貫名菘翁の3人へと展開していった。この3人は武家や儒者に信奉者が多く、特に江戸の市河米庵は諸大名にも門弟があり、その数5000人ともいわれた。江戸時代中期ごろから書法の研究が進み、これまでの元・明の書風から晋唐の書風[1]を提唱する者があらわれ、巻菱湖・貫名菘翁らは晋唐派であり、市河米庵などは派であった。この2派の流れは明治時代になってからも続き、明治時代の多くの書家に影響を与えていく。

この時代に書名のあった人物(唐様)

詳細は「日本の書家一覧#唐様」を参照

この時代の筆跡(唐様)
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
拈香偈 隠元隆琦 1669年 草書、墨跡(風) 萬福寺
竹林二字 即非如一 不詳 行書、墨跡 萬福寺
鉄牛和尚五十初度偈 木庵性瑫 1677年 草書、墨跡 浄住寺
白髪千梳詩 独立 不詳 草書、墨跡(黄檗様) 京都国立博物館
庵字 白隠慧鶴 18世紀中頃 行草、墨跡 松蔭寺
朱子家訓 石川丈山 不詳 隷書、唐様
唐詩屏風 北島雪山 不詳 行草、唐様 永青文庫
西湖十景 細井広沢 1720年 行草、唐様 東京国立博物館
戊辰臘八大雪買酒 亀田鵬斎 1808年 楷書、唐様 東京国立博物館
維馨尼宛書状 良寛 19世紀前半 行草、唐様 良寛記念館
王維竹里館
裴迪竹里館
池大雅 不詳 草書、唐様 詩仙堂
市河寛斎墓銘 市河米庵 1820年 楷書、唐様(顔真卿風) 本行寺
高都護驄馬行 巻菱湖 1823年 行書、唐様
書状 狩谷棭斎 1824年 草書、唐様(晋唐風[1]
前赤壁賦 市河米庵 1827年 楷書、唐様 東京国立博物館
狩谷棭斎墓碣銘 小島成斎 1835年 楷書、唐様(虞世南風) 法福寺
朱子家訓 貫名菘翁 1853年 楷書、唐様(褚遂良風)

和様

『蓮下絵和歌巻』(部分)
本阿弥光悦書

江戸時代初期を代表する寛永の三筆近衛信尹本阿弥光悦松花堂昭乗)の書は、前代から継承された御家流を土台としており、彼らの格調高い書風を学ぶ者が多かった。

貴族文化から庶民文化へ

平安時代以来の書道は上流社会の人々の間で行われていたが、この時代の書道は一般庶民にまで普及した。これは寺子屋という一般庶民の教育機関が全国に設けられ、その教育の中心が手習いであったことによる。寺子屋では主に御家流が習われた。唐様が儒者や文人趣味を好む学者など特定の範囲で広まったのに対し、和様は公家・武家・庶民を含めた広範囲に広まり、数の上では和様が勝った。

和様の代表

江戸時代中期の和様の代表は、幕府右筆森尹祥上代様の復興に努めた近衛家熙、千蔭流を成した加藤千蔭、池大雅などがいる。池大雅は後に中国の書の影響を受けて独自の書風を確立した。

この時代に書名のあった人物(和様)

詳細は「日本の書家一覧#和様」を参照

この時代の筆跡(和様)
筆跡名 筆者 年代 書体、書風 現所在
蓮下絵和歌巻 本阿弥光悦 1605年頃 草書・かな、和様 東京国立博物館
長恨歌 松花堂昭乗 1614年 行書・草書、和様 東京国立博物館
三十六歌仙色紙帖 松花堂昭乗 17世紀前半 草書・かな、和様・大師流 東京国立博物館
源氏物語抄 近衛信尹 1600年頃 かな、和様 東京国立博物館
和歌懐紙 加藤千蔭 不詳 行書・かな、和様 東京国立博物館
和歌懐紙 近衛家熙 17世紀後半 行書・かな、和様 東京国立博物館

戦前

明治時代概観[13]

和様から唐様へ

江戸時代末期、「御家流でなければ書にして書にあらず」という偏見があったが、御家流全盛の時代にも唐様を書くものがあり、その多くは文人墨客・儒者医家などであった。幕府が倒れて明治政府になり、政治の中心である太政官の文書課には、幕府時代の唐様を書く人々が多く職を奉じるようになった。巌谷一六日下部鳴鶴長松秋琴菱田海鴎北川泰明などがそれであり、これによって宮中府中の文書は唐様で執筆されるようなり、日本の書風に一大変遷を来たした原因となった。当時の唐様といえば、西では海屋流、東では菱湖流米庵流などが新派の頭目であった。それから10年程は変遷もなく、しばらく唐様が発展した。

六朝書道の勃興

明治13年(1880年)に来朝した楊守敬により日本における六朝派の書風が始まる。その後、中林梧竹が渡清し書法の研究に従事した。この梧竹の留学と楊守敬の来朝によって、維新の初年、御家流を滅ぼした唐様の新派に代わって六朝書道が流行するに至ったのである。それ以来、明治の終局まで大体において我が国の書風に変化というものはなかった。

『五仙騎五羊』(右幅)
巻菱湖書

菱湖流

唐様の新派の中で菱湖流(巻菱湖の書風)が盛り上がりを見せ、かなも菱湖の字体に調和した千蔭流が用いられた。欧陽詢の書法を取り入れた新鮮で明るい菱湖の書風が明治維新の新興の感覚に受け入れられ、明治政府の官用文字は御家流から菱湖流に改められた。やがて菱湖の楷書は益々人気が高まり一世を風靡した。菱湖の門弟として中沢雪城が師風をよく継承し、のちに巌谷一六西川春洞などの大家を輩出する。また、菱湖の門弟の巻菱潭が習字教科書の執筆者になるなど、菱湖流は主に教育面と実用面でその後も貢献する。

六朝書道

楊守敬の渡来とその影響

明治13年(1880年)4月、楊守敬清国駐日公使何如璋の招きで六朝碑帖13000点を携えて来日し、4年間在留した。この出来事は、それまで貧弱な版本を頼りに研究するより他に方法のなかった日本の書道界に大きな影響を与え、特に漢碑北碑に注目が集まった。奈良時代以降、日本の書は晋唐・宋・元・明清の書を典拠にしてきており、漢碑や北碑は日下部鳴鶴らの目に新奇なものとして映った。そして巌谷一六松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は、ほとんど日課同様に楊守敬を訪ね書法を問い、これが六朝書道流行の発端となった。こののち、日本人の渡清が相次ぐ。
明治15年(1882年)中林梧竹余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)とともに渡清し、余元眉の師潘存(はんそん、楊守敬の師でもある)を訪れ、書法の研究に従事した。帰朝後、長崎方面で六朝派の書風を鼓吹し、その後、東上して日下部鳴鶴らと交流したが、楊守敬の説とは往々見解が異なっていた。しかし、この梧竹の留学は楊守敬の来朝とともに六朝風勃興の最大原因となったのである[13]。続いて明治24年(1891年)鳴鶴が渡清し、兪樾楊峴呉大澂などの大家を尋ねた。

徐三庚の影響

北方心泉は明治10年(1877年)7月、東本願寺の命により布教のために渡清した。その後も数度渡航し、兪樾と交わるが、当時の大家徐三庚を最もよく学んだと言われる。岸田吟香実業家)と円山大迂篆刻家)は明治12年(1879年)ごろ、吟香が上海に開いた商業上の関係を機縁として徐三庚に親近し教えを受けた。秋山碧城(探淵、白巌ともいう)は明治19年(1886年)渡清し、徐三庚のもとで永年学び、師の書風を伝えている。西川春洞は日本で秋山碧城が清国から持ち帰った徐三庚の書を学び、徐三庚へ傾倒した。当時は通常、楷書・行書・草書を学ぶまでであったが、春洞は書域を隷書・篆書まで広げた。

帖学派と碑学派

このように明治に入って清人の碑学派との交流により、北碑の書などを中心にこの碑学派に走る新しい思潮が生まれたが、これに同調しない動きもあった。成瀬大域長三洲日高梅溪吉田晩稼金井金洞などは伝統的な書を守ろうとし、唐の顔真卿の書法(顔法)を主張した。そして長三洲の門弟の日高梅溪が国定習字教科書の執筆者となったことから、この時代の教科書の書風は顔法になっている。このような保守派と革新派との対立は、ちょうど清国の帖学派と碑学派に酷似している。

かな

庶民の間では依然として御家流が根強い人気であったが、上代様に対する知識の普及に力を傾倒した「難波津会」(なにはづかい)が明治23年(1890年)に三条梨堂東久世竹亭小杉榲邨高崎正風大口周魚阪正臣田中光顕らによって創設された。この「難波津会」の運動は、伝来の御家流に修正を加える努力を開始し、今日のかな書道の基底を形成する上に大きく貢献した。かな書道における重要な人々はほとんど「難波津会」に属していた。また明治29年(1896年)には大口周魚が西本願寺から『西本願寺本三十六人家集』の完本を発見し、平安仮名の粋を紹介した。

元勲

明治の元勲には能書が多く、伊藤春畝(博文)、副島蒼海(種臣)、木戸松菊(孝允)、大久保甲東(利通)、三条梨堂(実美)、西郷南洲(隆盛)などがあげられる。

木村重成碑(1886年)(部分)日下部鳴鶴書

建碑の流行

江戸時代後期から大正時代にかけて建碑が流行し、東京の下町には江戸文人たちの碑がたくさん残っている。特に明治26年(1890年)頃から未曽有の建碑ブームとなり、日下部鳴鶴は全国を行脚して碑文を書き、その数、千数百基に及ぶといわれる。巌谷一六は鳴鶴についで多くの碑文を揮毫している。その他、西川春洞柳田正斎長三洲野村素軒金井金洞宮島詠士など多数の書家が携わっている。また、明治天皇の勅命により神道碑が明治から大正時代にかけて8基建てられた。

神道碑

神道碑(しんどうひ)とは、墓所の墓道に建てる頌徳碑であり、『大久保公神道碑』などがある。

  • 大久保公神道碑
日下部鳴鶴73歳のとき、加賀山中温泉で150日を費やして書した。1字の大きさは5cm角で、総字数2919字は我が国最大の楷書碑であり、鳴鶴の最高傑作といわれる。青山霊園にあるが、ここには1万5000の墓碑が立ち、書的に貴重なものも多い。
神道碑一覧
名称 受者 墓所 筆者 建碑年月
毛利公神道碑 毛利敬親 上宇野令香園 野村素軒 明治29年(1896年)1月
木戸公神道碑 木戸孝允 京都霊山護国神社 野村素軒 明治39年(1906年)5月
大久保公神道碑 大久保利通 青山霊園 日下部鳴鶴 明治43年(1910年)9月
三条公神道碑 三条実美 護国寺 杉溪六橋 大正14年(1925年)4月
大原公神道碑 大原重徳 谷中霊園 北村信篤
広沢公神道碑 広沢真臣 松陰神社 杉山令吉
島津公神道碑 島津久光 福昌寺 松川敏胤 大正15年(1926年)11月
岩倉公神道碑 岩倉具視 海晏寺 杉溪六橋 大正15年(1926年)12月

書道会の発足

明治中期ごろから書道会の結成と会報の発刊が始まった。明治35年(1902年)には六書協会が展覧会を開き、現代の書道団体の形態に近づいてきた。

明治時代の書道会と会報
主宰者、発起人 会名 結成年 会報
小野鵞堂 斯華会 明治23年(1890年) 『斯華之友』
前田黙鳳江川近情 書学会 明治25年(1892年) 『書鑑』
西川春洞門下 尚古書会 明治30年(1897年) なし
斎藤芳洲高畑翠石 書道奨励会 明治33年(1900年) 『筆の友』
西川春洞渡辺沙鴎金井金洞
中根半嶺久志本梅荘
六書協会 明治35年(1902年) なし
諸井春畦 明治書道会 明治44年(1911年) なし

大正時代

この時代の書道界は、机上の研究から、小さいながらも一種のジャーナリスティックな世界をも形成し、盛んな論争が行われ、展示会が街頭に進出して一般の人に話題を提供するなど、次第に近代的な成長を遂げていく。

書道の刊行物の発行

書道思想の普及、宣伝の新たな方策として、明治時代末期から大正時代にかけて書道の刊行物が発行され、今日の書道界におけるPR運動の先駆けとなった。『談書会集帖』・『書苑』・『書道及画道』・『筆の友』・『書道研究』・『書勢』・『六朝書道論』などが発行された。また前田黙鳳は不便な出版事情にあって貧弱な法帖出版から出発して、古典資料の普及にその半生を費やした。

漢字

楊守敬より啓発を受けた日下部鳴鶴、巌谷一六の六朝書道、また、徐三庚に影響された西川春洞、さらに中林梧竹らの活躍によって、明治末から大正にかけての漢字書道界は華やかな動きを示している。

かな

かな書道界でも難波津会の啓蒙運動が清新な息吹を注入するが、その中で最も大きな出来事は、小野鵞堂を主柱とする斯華会の活動である。多田親愛大口周魚などが古筆の領域で研鑽を重ねていたが、鵞堂はこれに参画しながらも平安朝の草仮名を基底として独目の流麗なスタイルを案出し、婦人たちで習字をするものは、ほとんどこの組織で習うという盛況を呈した。

戦前昭和時代

西川春洞門の豊道春海による大正末期の「日本書道作振会」の創立を皮切りに、大規模な書道団体の結成が相次ぎ、その団体による書道展が開催された。近代書壇史の始まりである。また日下部鳴鶴門の比田井天来による現代書の出現もこの時代の特色である。そして書道に関する各種の刊行物が多量に発行されたこともあって、書道の普及、発達が著しい時代であった。

書道団体の離合集散(戦前)

日本書道作振会

大正11年(1922年)正月に日下部鳴鶴が亡くなり、同年12月に小野鵞堂が逝った。その2年後の大正13年(1924年)8月、西川春洞(大正4年(1915年)没)の高弟である豊道春海が当時のほとんどの書家を結集して「日本書道作振会」を創立させるという偉業を成し遂げた。その第1回展は翌14年(1925年)11月、日本美術協会列品館で開催された。大正15年(1926年)の第2回展は新築の東京府美術館(現在の東京都美術館)で開催された[14]が、比田井天来と丹羽海鶴はすでに脱会を宣言している。そして第3回展が開催された翌年、8人の書家による新書道会創立という宣言書が発せられた。

戊辰書道会

長谷川流石川谷尚亭吉田苞竹高塚竹堂田代秋鶴松本芳翠佐分移山鈴木翠軒の8人を発起人とする昭和3年(1928年)1月の書道会創立宣言書には、

書道ノ作興ニ対シ、小生等予テヨリ稽フル処アリシガ今回愈々其ノ機熟シ茲ニ新タナル書道会ヲ創立シ書道ノ健全ナル向上発展ヲ図ルト同時ニ実力本位ニヨリ新進ノ大成ヲ期シ兼テ後進ヲ誘掖センコトヨ欲ス。(以下省略)

とある。この8人が中心となって昭和3年(1928年)7月に結成したのが「戊辰書道会」であり、日本書道作振会からの分離独立によって書道界は二分された。

泰東書道院

「戊辰書道会」結成から僅か2年後の昭和5年(1930年)6月、日本書道作振会と戊申書道会が統合して新団体「泰東書道院」が結成された。これも豊道春海の尽力によるものであった。第1回展は早くも昭和5年(1930年)11月、東京府美術館で華々しく開催された。

東方書道会

吉田苞竹松本芳翠高塚竹堂佐分移山長谷川流石辻本史邑黒木拝石の7人が「泰東書道院」を分断して新しい書道会の創立を計画し、のちに川村驥山服部畊石柳田泰雲篠原泰嶺が加わり、昭和7年(1932年)4月、「東方書道会」を結成した。

三楽書道会

若海方舟が提唱者で昭和9年(1934年)5月に誕生し、第1回展が同月、開催された。

大日本書道院

昭和12年(1937年)4月、比田井天来が鳴鶴門の一部の人々と天来直門の人々で組織したのが「大日本書道院」である。昭和12年(1937年)7月24日から8日間、東京府美術館で第1回展を開催し、2950点の出品作品を天来が単独審査し話題を呼んだ。また、70余点におよぶ鳴鶴遺墨展を併催した。第2回展を終えた翌年、昭和14年(1939年)1月4日、天来が急逝したが会は遺業を受け継いで存続した。しかし、昭和16年(1941年)12月29日、声明書を発して解散し、「興亜書道連盟」に吸収された。

興亜書道連盟

川崎克(政治家)が満州中華民国との親善を目的に昭和14年(1939年)4月、「興亜書道連盟」を結成した。第1回展は北京中南海公園懐仁堂・大連三越・上海中部日本学校・南京朝天宮・大阪市立美術館の5会場で公開された。

書壇革新協議会

昭和15年(1940年)12月、東亜書道新聞社が座談会を催し、書家の参集を求めて書道界の大同団結について意見を交換し、昭和16年(1941年)1月、「書壇革新協議会」の結成に至った。しかし種々の難問があったことや所期の目的を達成したことからすぐに解散の声明を発した。

大東亜書道会

大政翼賛会が乗り出して国策に添う新団体結成を図り、昭和18年(1943年)1月、「大東亜書道会」が結成された。反対意見が許されない時代背景もあって時局は緊迫し、「東方書道会」は解散、「泰東書道院」・「三楽書道会」は休眠状態に入り、「興亜書道連盟」は健在である声明書を発したものの自由が利かなくなった。「大東亜書道会」は戦争を背景にした特殊機関であり、もはや書道のための団体ではなかった。

現代書への胎動

日下部鳴鶴を継ぐ主な人々の中で、最も壮大な展開をしたのは比田井天来である。天来は30歳のとき、文検(習字科)に合格し書家としての活躍が始まった。鳴鶴は唐様を六朝書によって革新し、さらに碑版法帖の体系的研究により、書にもその時代に相応しい根拠を持たせようとした。これに対して天来は碑版法帖をより一層体系づけるとともに個性・芸術性という内面的な美意識を開拓していった。この鳴鶴から天来への展開は、天来の門弟たちに引き継がれ、この時代に「現代書」として現れる。

  • 日下部鳴鶴
  • 比田井天来
現代書の宣言

昭和8年(1933年)天来の教えを受けた上田桑鳩を中心とした若い世代が「書道芸術社」を結成し、機関誌『書道芸術』を発刊した。その創刊の辞に、

「現代に活きて居る吾等には自ら現代の書がなければならぬ。」「明治大正の二時代に於て、先覚は献身的に復古運動を絶叫された。然し復古そのものが最後でも目的でもない。此の基礎に立って古いものを現代化し、或は進んで新しく生み出すことに意義がある。」(抜粋)

と述べている。また鮫島看山は同じく創刊号の「作書理法覚書」の中で、

「書は文字と云ふ素材を借りて作者の主観を表現するところの線芸術である。」「社会状勢が変り、作者の主観が異り、用具が新に発明さるるならば、更に新しい様式が生れる可きは当然である。だから何時迄も従来の篆隷楷行草に固執する必要はないと云ふことになる。」(抜粋)

と述べている。このように『書道芸術』創刊号は「現代書」の進むべき方向性を明らかにするものであった。

近代詩文書については、昭和8年(1933年)金子薊谷(鷗亭)が『書之研究』に「新調和体」論を展開し、島崎藤村の「秋風の歌」や北原白秋の「けやき」・「かやに」を発表した。また、『書道芸術』は昭和12年(1937年)11月号で、仮名交じり文の研究を特集し、手島右卿は仮名交じり文とともに、それの英語表現を報告している。

戦後

詳細は「書道展#戦後」を参照

戦後の日本の書道界の大きな出来事は以下のとおりである。

  • 昭和23年(1948年)日展(第五科)に書道が参加[15]
  • 昭和26年(1951年)4月より、小学校4年生以上に毛筆習字の正科が復活
  • 前衛書道の出現
前衛書道は、かつて「新派」とか「新傾向」と呼ばれていたが、昭和29年(1954年)の毎日書道展で、「墨象芸術」の名が与えられ、美術評論界などでは「抽象書道」などとも呼ばれた。「書道芸術社」で現代書の運動に関与した上田桑鳩と大澤雅休は、それぞれ書道芸術院内で、「書の美」と「平原社」のグループを結成し相拮抗していた。近年の前衛書道の団体としては、この書道芸術院の他に、「奎星会」・「草人社」・「蒼狼社」・「現代書作家協会」があり、その他無所属に比田井南谷らがいた。

学校の書道教育

近代書道教育の発展に貢献したのは小中学校の習字教科書の筆者ともいえる。その書風は明治初期の菱湖流から始まり、明治後期から顔法が昭和初期まで続いたが、このころから筆者である書家たちの古典研究が盛んになり、次第にその影響が現われてくるようになった。中でも六朝書風から脱皮して晋唐書風[1]に傾倒した丹羽海鶴文部省教員検定試験委員(習字科)になり、学校の書道教育の基準を初唐の楷書におくことを提唱した。その結果、海鶴の門下である鈴木翠軒が国定の習字教科書の執筆をするに至り、この基準は確固たるものとなった。

明治初期からの習字教科書の筆者
筆者 期間 区分
巻菱潭村田海石香川松石
玉木愛石名和菱江三宅盤鴻
西川春洞
明治5年(1872年) - 明治35年(1902年) 習字教科用図書検定制時代
日高梅溪 明治36年(1903年) - 明治42年(1909年) 国定一期本
日高梅溪香川松石板倉潭石 明治43年(1910年) - 大正6年(1917年) 国定二期本
日高梅溪西脇呉石山口半峯 大正7年(1918年) - 昭和7年(1932年) 国定三期本
鈴木翠軒高塚竹堂
比田井小琴
昭和8年(1933年) - 昭和15年(1940年) 国定四期本
井上桂園 昭和16年(1941年) - 昭和20年(1945年) 国定五期本
金田心象 昭和22年(1947年) 文部省著作中学校用教科書

文部省教員検定試験

文部省教員検定試験(文検)とは、中学校・師範学校の教員の資格を与える検定試験であり、明治18年(1885年)から昭和23年(1948年)までの63年間に亘り施行された。

背景

明治時代になり、学校制度は小学校・中学校・師範学校・大学等が設けられたが、中学校・師範学校の教師の有資格者が乏しく、これを補うために、明治17年(1884年)8月13日、「中学校師範学校教員免許規程」が定められた。その第3条に「学力ノ検定ハ試験ニ依ルモノトス」とあり、明治18年(1885年)3月、第1回学力検定試験が施行された。

文検習字科

中学校・師範学校の習字科教員として教職に就くためには、この文検習字科に合格する必要があった。受験者は主として小学校教員であったが、検定試験の合格率は5%と大変厳しく、有資格者の欠を充たすには程遠かった。したがって有資格者がいない学校も相当数あったことから習字成績の学校差は歴然たるものであった。
昭和10年(1935年)前後から「文検習字科」は「文検書道科」に改名された。これは実用主義に造形芸術としての美の追求が加味された結果であり、世論の要求に文部当局が応じたものであった。よって受験者もそれぞれの時代の要求に応じて周到な準備をする必要があった。

近現代書の人脈

漢字

詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照

漢字書道界における巨星は日下部鳴鶴であった。六朝書道の主唱者であり、最も多くの門人を擁した明治書道界の啓蒙者である。西川春洞がこれに拮抗し、今日の漢字書道界の基礎はほとんどこの2人を中心に造られた。また、日下部鳴鶴門下の比田井天来は鳴鶴の古典研究をさらに発展させて、書の近代化と芸術的独立のために努力し、その門下から進歩的な書家が多く輩出した。

かな

詳細は「日本のかな書家一覧」を参照

かな書道界における小野鵞堂もまた多くの門人を育成した。また、大口周魚に学んだ尾上柴舟は古筆第一主義をとり、多くの門人に影響を与えた。

年表

近代書道史年表

明治10年 1877年
明治11年 1878年
明治13年 1880年
明治14年 1881年
  • 3月、第2回「内国勧業博覧会」開催。
  • 9月、松田雪柯没。
明治15年 1882年
明治18年 1885年
明治19年 1886年
明治20年 1887年
明治23年 1890年
明治24年 1891年
明治27年 1894年
  • 「同好会」結成(日下部鳴鶴)。
明治28年 1895年
  • 3月、長三洲没。
  • 4月、第4回「内国勧業博覧会」開催。
明治29年 1896年
明治30年 1897年
  • 「尚古書会」結成(西川春洞門下)。
明治33年 1900年
  • 「書道奨励協会」結成(斎藤芳洲等)。
  • 5月、『筆之友』刊行(「書道奨励協会」)。
明治34年 1901年
明治35年 1902年
  • 2月、『書鑑』刊行(前田黙鳳)。
  • 「六書協会」結成(西川春洞・渡辺沙鴎・金井金洞等)。
明治37年 1904年
  • 1月、「謙慎堂同窓会」結成(諸井春畦・豊道春海等)。
  • 『斯華の友』刊行(小野鵞堂)。
明治38年 1905年
明治40年 1907年
明治41年 1908年
明治42年 1909年
  • 5月、「健筆会」第1回展(上野・日本美術協会)。
明治43年 1910年
明治44年 1911年
  • 6月、「日本書道会」第1回展(渡辺沙鴎、両国・回向院)。
  • 11月、『書苑』刊行(黒木欽堂、「法書会」)。
大正2年 1913年
  • 8月、中林梧竹没。
  • 10月、『龍眠』刊行(中村不折)。
  • 「平安同好会」結成(山本竟山)。
大正3年 1914年
大正4年 1915年
  • 1月、楊守敬没。
  • 8月、西川春洞没。
大正5年 1916年
  • 10月、渡辺沙鴎没。
大正6年 1917年
  • 1月、「全国書道大会」開催(諸井春畦、帝国劇場)。
  • 5月、「大同書会」結成(井原雲涯等)。
大正7年 1918年
  • 11月、前田黙鳳没。
大正8年 1919年
大正9年 1920年
  • 10月、大口周魚没。
  • 「平安同好会」が「平安書道会」(長尾雨山等)と改名。
大正10年 1921年
大正11年 1922年
大正13年 1924年
大正14年 1925年
  • 5月、『書鑑』刊行(辻本史邑、「寧楽書道会」)。
  • 11月、「日本書道作振会」第1回展(日本美術協会)。
大正15年 1926年
昭和2年 1927年
  • 12月、野村素軒没。
昭和3年 1928年
昭和5年 1930年
昭和6年 1931年
  • 3月、「泰東書道院」による支那書道視察団出発。
  • 7月、丹羽海鶴没。『書道春秋』刊行(比田井天来)。
  • 8月、阪正臣没。
  • 10月、「関西書道会」結成。『書契』刊行(柳田泰麓)。
  • 11月、『実用書道』刊行(比田井天来)。『六朝の書道』刊行(西川寧、「東亜研究会」)。
昭和7年 1932年
昭和8年 1933年
  • 5月、「謙慎書道会」結成。
  • 7月、「謙慎書道会」第1回展。
  • 10月、「書道芸術社」結成と『書道芸術』刊行(上田桑鳩・桑原翠邦等)。
昭和9年 1934年
昭和10年 1935年
  • 6月、「中部日本書道連盟」第1回展(名古屋市美術館)。中林梧竹遺墨展(東京府美術館)。
  • 7月、井土霊山没。
昭和11年 1936年
  • 5月、「日本美術協会」第100回記念総合美術展。
  • 11月、「書道博物館」創設(中村不折、東京・谷中)。
昭和12年 1937年
昭和13年 1938年
  • 4月、『少年少女書道』刊行(「泰東書道院」)。
  • 11月、「日満親善書道展」開催。
昭和14年 1939年
昭和15年 1940年
  • 5月、吉田苞竹没
  • 6月、渡辺沙鴎遺作展(東京・鳩居堂)。
昭和16年 1941年
昭和17年 1942年
  • 4月、長尾雨山没。
  • 8月、佐分移山没。
昭和18年 1943年

現代書道史年表

昭和21年 1946年
昭和22年 1947年
  • 11月、「書道芸術院」結成。
昭和23年 1948年
  • 3月、「書道教育振興会」結成(委員長豊道春海)。
  • 8月、「全国書道展」(毎日新聞社主催、東京都美術館)。
  • 10月、第4回日展(書道が第5科に参加)。
昭和24年 1949年
  • 2月、「日本書道院」が「日本書芸院」に改名。川崎克没。
  • 3月、「文検」が最後の本試験を実施。
  • 5月、「書道同文会」結成。
  • 10月、第5回日展(東京都美術館)。
  • 12月、『書品』刊行(西川寧・松井如流)。
昭和25年 1950年
  • 2月、「日本書作院」結成。
  • 10月、第6回日展。
昭和26年 1951年
  • 4月、「日本書道連盟」結成。小学校4年生以上に毛筆習字の正科が復活。
  • 10月、第7回日展。
昭和27年 1952年
  • 4月、「独立書道会」結成(手島右卿等)。
  • 10月、第8回日展。
昭和28年 1953年
昭和29年 1954年
  • 2月、秋山碧城没。
  • 10月、第10回日展。
昭和30年 1955年
  • 10月、第11回日展。
昭和31年 1956年
  • 10月、第12回日展。
昭和32年 1957年
  • 1月、「現代書道二十人展」開催(朝日新聞社主催)。尾上柴舟没。
  • 1月、「東方書道院」結成(松井如流等)。
  • 11月、第13回日展。
  • 12月、辻本史邑没。
昭和33年 1958年

脚注・出典

  1. ^ a b c d e f g 晋唐の書風とは東晋王羲之初唐の三大家を中心とした書風を指す。
  2. ^千字文』は周興嗣(470年 - 521年)によって作られたものなので、285年に伝来したというのは矛盾する。
  3. ^ 大島正ニ『漢字伝来』P.5
  4. ^ 三筆の呼称は後世のもので、文献としては享保2年(1717年)刊の『和漢音釈書言字考節用集』(『合類大節用集』ともいう)の「巻10・数量門」で確認できる。節用集とは、現在の国語辞典に相当するもので、いろは順の配列になっている。「数量門」には数値に関連した語が記載されている。
  5. ^ 森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』P.190の要約
  6. ^ 「ン」を除くいろは47音に、濁音20音(ガ行・ザ行・ダ行・バ行)を加えて67音、ヤ行の「エ」(ye)で68音、またキ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロとその濁音ギ・ゲ・ゴ・ゾ・ド・ビ・ベの19音が2音に使い分けられていたので87音になる。
  7. ^古事記』や『万葉集』巻第5では「モ」も2音に使い分けられているため、これを含めると88音になる。
  8. ^ キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・ギ・ゲ・ゴ・ゾ・ド・ビ・ベ・(モ)の各音は2音に使い分けられていたが、今日、これら各音の使い分けを甲類・乙類と呼ぶ。
  9. ^ 奈良時代に87音あった音の数は、9世紀前半には70音(コ・ゴの乙類とヤ行の「エ」だけが残る)に、10世紀前半には68音(ヤ行の「エ」だけが残る)に減少し、そして10世紀後半には67音になった。
  10. ^ このうち各人が使用する字母は100字から200字ぐらいであった
  11. ^ 『手』とは文字の意
  12. ^ 鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』P.140
  13. ^ a b六朝書道論』(井土霊山中村不折共訳)の巻末付録「明治年代の書風」(日下部鳴鶴)の要約
  14. ^ はじめ書道展に対して東京府美術館は借館に同意しなかった。書を芸術とは認めなかったのである。豊道春海はこの館の寄贈者である佐藤慶太郎を訪ねて九州まで行って説得し、ついに美術館進出を果たした。
  15. ^ 昭和22年(1947年)豊道春海が請願し可決された。

参考文献

関連項目

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