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日本国(にっぽんこく、にほんこく)、通称日本は、日本列島を主な領土とする東アジアの国家である。
概要地理日本は6852(本土5島と6847の離島)の島[3]から成る島国である。 東アジアの中でも特に東方にあり、ユーラシア大陸の東端にあたるため、欧米から極東・東洋などとも呼ばれる。 太平洋の北西部にある領土は、本州・北海道・九州・四国などからなる日本列島を中心に、南に延びる伊豆諸島・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄など)および北東に位置する北方四島などの離島を多く含み、全体として弧状列島を形成する。 周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。 地勢周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海をいれた国土面積は、約43万Km²、排他的経済水域をいれて約447万km²であり、これは国土面積の11.7倍にあたる[4]。 経済詳細は「日本の経済」を参照 工業国として、国内総生産 (GDP) で世界第2位(USドル時価換算)に位置する経済大国である[5]。通貨の日本円は高い信用を持ち国際通貨の一つである。その信用の高さから日本人は現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年(昭和39年)に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、主要国首脳会議には1975年(昭和50年)の第1回(当時は先進国首脳会議)から参加するなど、世界経済へ強い影響力を持つ。 歴史詳細は「日本の歴史」を参照 国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な記録はない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀において神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年、1月1日 (旧暦))となっている。 日本列島には約10万年前ないし約3万年前から、しだいに人が住み始めた。約1万2千年前の前後、氷河期が終わると同時にアジア大陸と分離し、東アジア文化圏の影響下にありつつも独自の文化・社会・政治体制を築いていった。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期である。 「日本」は東アジアの中でも独特な国際的地位を保持し続け、7世紀には中華王朝に対し独自に「天子」を称し、13世紀の元寇や16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出などの事態にも対応して独立を維持した。 明治維新によって日本は近代国家として著しい発展を見せ、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となった[6]。大正デモクラシーを経て、政党政治と普通選挙を実現したが、次第に軍部が擡頭し太平洋戦争(大東亜戦争)で敗北。イギリスやアメリカなどの連合国の占領下に置かれることとなった(1952年(昭和27年)に国家の主権を回復)。戦後は復興と共に高度経済成長を遂げ、世界有数の経済大国となった。 国民古来から日本列島で暮らしてきた人々は、日本民族(大和民族)と呼ばれ、日本に住む者のほとんど(98.5%[7])を占める。また日本列島にルーツをもつ他の民族として、アイヌ及びニヴフ、ウィルタがいる。アイヌは北海道の先住民族として政府から認定されているが、樺太にルーツを持つニヴフとウィルタは政府による公式な認定は受けていない。なお沖縄諸島ないし琉球諸島の住民を琉球民族として大和民族と分ける考えもあるが、あまり一般的ではなく、政府も認定していない。 ヤマト政権、大和朝廷側から書かれた古代史には九州地方に熊襲、関東に蝦夷などの文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語の比較言語学的関連が見いだせないことからアイヌと大和民族との関連については様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ徐々に中世ころから分化したものと考えられている。 また、日本列島外にルーツを持つ外国人と帰化人が200万人程、在住している[8]。 民族の項目も参照 言語日本には公用語を明言する法律が存在しないが、日本全土で日本語が用いられており、事実上の公用語である。さまざまな「お国言葉(方言)」があり、近代以降、東京方言を基盤とする標準語(太平洋戦争後は「共通語」)の整備と国語による普通教育が国策として進められた。共通語の普及により伝統的な方言の多くは衰退したが、地域文化・アイデンティティーの一つとして見直す機運が高まっており、普通教育においても現在は共通語と方言の共存が図られるようになった[9]。また北海道においては、日本語と系統の異なるアイヌ語がアイヌによって用いられるが、現在では母語話者が極めて少なく、消滅の危機にある。 国際取引や学術研究の場では主に英語の使用が奨励されることもあるが、これは実務上での便益や諸外国人への配慮に添うものであり、日本人同士の意思疎通の言葉に日本語以外の言語が用いられることはまずない。義務教育を含め多くの日本人が英語を学習しているが、日本語との系統的な距離が遠いこと、多くの日本人にとって日常生活での英語の必要性が低いことなどから、堪能な者は少ない。 言語も参照。 政治政治は、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法を最高法規として行われる。統治機構は、立法権を国会、司法権を裁判所、行政権を内閣に分配する三権分立制を採る。また行政権を有する内閣が立法権を有する国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用している。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を憲法の三大原理とし、その根本にある個人の尊重(個人の尊厳)を基調とする。また、憲法に元首の定めはないものの、世襲である天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)として、元首またはそれに準じた地位に置く。 天皇詳細は「天皇」を参照 第二次世界大戦後から現在まで日本国憲法の定めるところにより「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられている。日本国外での英語呼称はEmperor。政府の公式見解としては事実上の国家元首であるが、その立場にはさまざまな解釈がある(後述)。明治期から大日本帝国憲法下は立憲君主制であることが明記されていた。 初代神武天皇から第125代の今上天皇(現在の天皇明仁)に至るまで、すべて神武天皇の男系子孫により世襲されてきた(万世一系)とされるが、古代の天皇には存在や血統を疑われるものが多く歴史学的な根拠はない。また歴史的に直接統治(親政)を行った時期は少なく、幕府などの機構に統治を委任することが多かった。天皇は主として、その政治権力の担い手の正当性を根拠づけ、権威を表象する役割を果たした。 外交日本は同盟国との関係を重視しつつ、世界中の国と友好関係を築いている。 イギリスのBBCワールドサービスが2005年より毎年公表している、10前後の特定の国および地域が世界に与えている影響の印象を尋ねる世界規模の世論調査では、日本が質問対象国となった2006〜2008年の各年いずれも、「好影響を与えていると思う」との回答率がもっとも高い国の一つとなった。日本は、国際的に非常に高い評価を得ている[10]。2006年公表の調査では、33カ国、約39500人に調査し、日本は、ヨーロッパに次ぎ、国としてはもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。2007年の調査では、27カ国、28000人に調査し、日本はカナダ、EU諸国と並び、もっとも高い評価を受けている国の一つにあげられた。2008年の調査は、34カ国、17457人に調査し、日本はドイツと並んでもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。 2010年に読売新聞社とBBC放送が共同実施した世論調査では、「日本は世界に良い影響を与えている」という評価が53%で、「悪い影響を与えている」の21%を上回り、「良い影響」が59%のドイツに次ぎ、日本は欧州連合と並んで2番目となった[11]。 国号国号には「日本国」が通常用いられる。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられている。 根本法令である憲法の表題には、「日本国憲法」「大日本帝国憲法」のように「日本」という国号が明示されてはいるが、国号を日本国と直接かつ明確に規定した法令はない。 国号の成立「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられている。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。倭国も、それまでの遣隋使をあらためた遣唐使を送って、唐との外交関係を深めていた[12]。朝鮮半島では、唐との連携を強めた新羅が急伸し、663年には唐・新羅連合軍と百済・倭国連合軍との間で白村江の戦いが起きた。この戦いに敗北した百済は滅亡し、倭国は国内統治体制と防衛体制の整備を推進した。その後、672年に起きた壬申の乱を経て、強い権力を握った天武天皇は、天皇中心の国制構築をさらに進めた。それは主として律令制の導入という形で進められ、689年に頒布された飛鳥浄御原令に始まり、701年(大宝元年)の大宝律令成立で一応完成した。 このような国際・国内状況の中で「日本」号は成立したが、具体的に成立時点を特定した史料はない。ただ、成立時点を推定する見解は、二説に絞られている。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)において成立したとする説である[13]。これは、天武天皇の治世において成立したと解されている「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年に頒布された飛鳥浄御原令において「天皇」号と「日本」号が定められたと推測する[14][15]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立前後に「日本」号が成立したとする説である[16]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式において「日本」号が定められたとしている[17]。『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと今日では考えられている[18]。 8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[19]。後代に成立した『旧唐書』[20]、『新唐書』[21]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武周、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としており、混乱が見られる[22]。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことは確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[23]。 『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は日本列島を東方に見る国、すなわち中国大陸からの視点に立った呼称である[24]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている[25]。 『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、仏典『大智度論』に「日出ずる処」は東方の別表現である旨の記述があるため、現在では「日出ずる処」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係と考えられている[26]。 読み「にっぽん」、「にほん」と読まれる。日本政府は正式な読み方を明確に定めていないが、「にっぽん」「にほん」どちらの読み方でも良いとしている[27]。雅語では「ひのもと」と読むことがある[28][29]。 「日本」の国号が成立する以前、中国古代王朝からは「倭国」または「倭」と称されていたが、「やまと」の政治勢力が中心となって倭を統一したため、古代日本では漢字の流入とともに倭を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて古代日本が認識していた国号である「やまと」に当てた漢字を倭から「日本」に変更し、日本と記して「ヤマト」と読んだ。[30] 同時に、「日本」国号は7世紀後半の国際関係から生じたものであるため、当時の国際的な読みである音読により、「ニッポン」(呉音)または「ジッポン」(漢音)と読まれただろうと推測されている[31]。「ニホン」の読みがいつ始まったかは定かでない。平安時代の仮名表記では促音・濁音の区別がなかったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。「ニホン」の読みはここから起こったと考えられている。しかしながら日本語においてハ行音はP音→F音→H音と変化したと考えられ[32]、H音が定着するのは江戸時代以降であり、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代には「ニッポン」あるいは「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代後期の頃に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。 室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』『日本語小文典』等には「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合では「ニッポン」が使われ、日常の場面では「ニホン」が使われていた[33]。 Xipangu、Japan、Japon 等、ヨーロッパ語圏での日本を表す語は「ジッポン」に由来すると考えられているが、「ジッポン」音は現在伝わっていない。このことから小池清治は、中世日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用するのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていたのであり、日常的には「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのではないかと推測している[34]。 その後、明治期に入っても「ニッポン」「ニホン」の統一がなされない状況の中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が、国号呼称を「にっぽん」に統一し、外国語表記もJapanを廃してNipponを使用すること、とする案を示した。しかし、完全な統一は果たされなかった。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれている。「NIHON」と表記する例はあまり多くない[35]。2009年(平成21年)6月30日に、政府は「日本」の読みについて、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[27]。 別称・外国語呼称日本の別称は古くから多様である。 自らを呼んだものには、まず「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(『古事記』)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(『日本書紀』神代)等があり、これらに共通する「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われている。「大倭豊秋津島」(『古事記』)、「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)の「秋津島(洲)」は(とんぼの島)の意であるが、孝安天皇の都の名(室秋津島宮)に由来するとされている。同じく「師木島」(『古事記』)、「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)等の「しきしま」も、欽明天皇の都(磯城島金刺宮)に由来するとされる。「大八洲」(『養老令』)、「大八洲国」(『日本書紀』神代)は、多くの島からなる島国の美称と解されている。このほか、「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)、「浦安国」「藤根国」(『詞林采葉抄』)、「日出処」、「大和国」、「和州」等多くの別称があった。 中国からの呼び名には「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」のほか、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」 [36]、「蓬莱」をはじめとして、「東海姫氏国」、「東海女国」、「女子国」「君子国」、「若木国」、「日域」、「日東」、「日下」、「烏卯国」、「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。 「皇朝」はもともとは中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」または「すめらみかど」等と訓読した。「神国」、「皇国」、「神州」、「天朝」、「天子国」などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号というようなものではない。「本朝」は「我が国」というような意味であってこれも国名ではない。江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中国」などと書くことがあったがこれも国名ではない。「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字をつけて天子の王朝であることを示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。「大元・大明・大清」は例外でこの3例のみは二文字で正式国名)。しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。「帝国」は、もとは「神国、皇国、神州」と同義の語であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法制定以後は「大日本帝国」のほか、「日本」、「日本国」、「日本帝国」、「大日本国」などといった国号表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[37]。 公式の英語表記は、Japan(ジャパン)。略記としてはJPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[38]、使用には注意が必要である(但しこの他の言語ではこの限りではない)。また近年、外国語表記でNippon(ニッポン)が用いられる例が出てきている。具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。なおNipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあり、多くはNPNが使用される。 世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英: Japan)、チャパーン(愛: tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、イィポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音したもの(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) あるいはジャパング (Japangu) を語源とするとするのが定説である。中国や韓国などの漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中: Rìběn; 日本)、イルボン(朝: 일본; 日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản; 日本)[39]等、そのまま「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。 なお、「日出づる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示すものとして使用されている。例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 歴史詳細は日本の歴史および各時代の項目を参照 アイヌと琉球王国については、日本の領域に含まれたのが近代以降であり、それ以前の歴史の詳細を各々の項目にて解説している。 概観日本の歴史は通常、日本列島における歴史と同一視されているが、国号節で見たように、厳密には「日本」の成立は西暦700年前後の出来事であり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」を明確に区別してとらえるべきとする考えも出されている[40]。本節では国家としての日本がたどった歴史とその領域の変遷を中心に見ていくこととする。日本の歴史の詳細については日本の歴史および各時代の項目を参照されたい。 日本の歴史の時代区分は、考古学上のものと歴史学上のものがある。考古学上の時代区分は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上の時代区分としては、古代(飛鳥時代およびそれ以前・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治・大正・昭和およびそれ以降)の四分法が通説である。(→日本の歴史#時代区分節) 日本列島の人類の歴史は、約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島はアジア大陸と陸続きであり、西方の華北・北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、日本列島は大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあったが、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件によって、日本は他の東アジア地域とは異質な要素を持つ文化・社会を発達させていった。 紀元前8世紀頃以降、大陸から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後には各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。この連合的政治組織は3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展する。663年には百済復興のために朝鮮に援軍を送るが白村江の戦いで唐に敗れ朝鮮への影響力を失う。7世紀後半には中国の法体系・社会制度を急速に摂取して8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見るに至った。「日本」国号と天皇号は、この古代国家の建設・成立と軌を一にして登場したと考えられている。当時の日本は隋との通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せており、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向していた。他の東アジア諸国とは異質な外交姿勢であり、この外交姿勢は、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれていったが、室町時代から戦国時代にかけては明王朝に対して朝貢が行なわれ、足利将軍家は日本国王に封じられている。このことから東アジアの広域な政治・経済的な状況により冊封体制を受け入れる柔軟性や多様性も認められる。 成立当時の「日本」の支配地域は、日本列島全域に及ぶものではなく、九州南部以南および東北中部以北はまだ「日本」の領域外だった。九州南部は8世紀末に「日本」へ組み込まれたが(→隼人)、東北地方の抵抗は強く全域が「日本」の領域となったのは鎌倉時代に入ってからである(→蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷征服活動が活発化するとともに、新羅遠征が計画されるなど、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入るとこうした動きは沈静化した。 10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、さらに中世国家へと移行した(→荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め、これは社会に「日本」「日本人」の意識が生まれたことの現われと考えられている。特に13世紀後半の元寇(蒙古襲来)は、「日本」「日本人」意識が社会各層に広く浸透する契機となり、あわせて「日本は神国」観念を定着させた。網野善彦は、このように「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏なども含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[41]。室町時代には「日本」の領域が北海道南部まで及んだ。 14世紀 - 15世紀の時期には、社会の中世的分権化が一層進展していったが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んでいった。この地域国家形成の動きは、中世社会の再統合へとつながり、16世紀末には日本の統一政権が樹立されるに至り、時代は近世へと移行した。「日本」の領域はこの時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は「日本」の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、いわば境界というべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌおよびロシアへの他者意識が「日本」「日本人」観となって庶民層にまで定着し、「日本」の領域も蝦夷が島(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、「日本」の西の境界は、中世を通じて鬼界島・硫黄島までと意識されていた。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻し、支配下におさめたが、その後も琉球王国は日本・中国への両属を続けた。 19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとして「日本」「日本人」意識がますます強まり、現代の「日本」「日本人」意識とほぼ一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされていく中で「日本」が独立の歴史を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となったと考えられている。 明治維新を迎えた日本は、近代的な国民国家の建設を急速に進めていった。同時に近隣国と国境確定を行い、1875年(明治8年)に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(→樺太・千島交換条約)、南西諸島方面は琉球処分を通じて実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代的国家としての日本国領域が確定した。 自由民権運動を経て日本は1885年(明治18年)に、内閣制度を確立して、1889年(明治22年)には大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして日本は、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となった[6]。 19世紀後半 - 20世紀初頭当時の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られた日本は、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じて日本は、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土におさめ、関東州租借権を獲得した。その後日本は、1910年(明治43年)に韓国併合が行われた。1919年(大正8年)にパリ講和会議では人種差別撤廃案を提出し人種差別撤廃を訴えたがアメリカ合衆国などの反対で実現できなかった。また、発足した国際連盟からの委任を受けて南洋群島を統治することとなった。大正時代には大正デモクラシーが起こり、政党政治と普通選挙が実現した。 1930年代には満洲への進出を強め、満洲国を建国して一定の支配権を得るにいたり、国内では軍部が擡頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国との権益と真っ向から衝突し、最終的には1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)での敗北によって破局に至った。 敗北した日本は、連合国軍の体制下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを事実上失った。日本が他国の占領を受けるのは史上初の経験だった。ただし、日本の政府及び天皇については連合軍が全てを決定しての支配ではなく、あくまでも占領であった。連合国占領下において国制改革が進められ、憲法改正を行い、日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約により占領が解除されると、その後の日本は1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げた(→高度経済成長#日本の高度経済成長)。また1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてはトカラ列島と奄美群島、1968年(昭和43年)には小笠原諸島、1972年(昭和47年)には沖縄県の施政権がそれぞれアメリカ合衆国から返還された(→本土復帰、沖縄返還)。 1970年代後半以降の日本は、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国では成長モデルとして目標にされてきた。21世紀に至り、日本は高齢化社会とそれに伴う人口減少、経済の世界規模化への対応などの課題に直面している。 建国をめぐる議論
日本の初代天皇とされる神武天皇
『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、戦前はこれが日本建国の画期と考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、紀元前660年を元年とする紀年法「皇紀」が1873年(明治6年)1月1日から使用された[42]。 公的には前述の神武天皇即位紀元をもとにして、1966年(昭和41年)、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)によって2月11日が「建国記念の日」に定められた。(→建国記念の日) しかし、歴史学の立場からすると、神武天皇即位は神話の反映と見られており、事実ではないという意見もある。戦後になると、皇紀が使用されることはほとんどなくなった[43]。 日本の建国時期として、このほか「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令または大宝律令の成立時期)、大政奉還がなされ近代国家建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることがあるが、国家としての日本は長い歴史的経緯を経て形成されており、明確な建国の画期を見出すことは困難であり、建国をめぐる議論は主観的なものとなりがちである。 地理日本は、アジア(ユーラシア大陸)の東方、太平洋の西部にある島国であり、4つの弧状列島(日本列島、千島列島、南西諸島、伊豆・小笠原諸島)から成り立っている。台湾の東方にある与那国島から、樺太の南方にある北海道までを領土としている。 北にオホーツク海、北西に日本海、南西に東シナ海、南にフィリピン海、東に太平洋と周囲をすべて海に囲まれ、日本海を挟んで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア連邦、東シナ海を挟んで中華人民共和国、中華民国(台湾)、フィリピン海を挟んでフィリピン共和国と国境を接する。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。 全体的に弓形状になっており、全6,852島からなる国土面積は約37.8万km²(日本の実効支配領域に限る)。国土の約70%が山岳地帯であり、森林率は約67%である。周囲はすべて海であり、地上の国境線はない。 本州と四国の間の海は瀬戸内海と呼ばれる。沖合を暖流の黒潮、対馬海流、寒流の親潮、リマン海流が流れる。 現在、ロシアとの間に北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)、大韓民国との間に竹島の領有問題がある。その他、近年になって尖閣諸島近海に地下資源が発見されて以来、中国が尖閣諸島の領有権を主張しており、台湾も中国に対抗して尖閣諸島の領有権を主張している。尖閣諸島は一貫して日本の実効支配下にあるが、北方領土はロシアが実効支配を続け、竹島は韓国軍に占拠されたままとなっている。 日本列島の地形区分は地質構造を基準にして南西日本と東北日本に大別される。その境界線は本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線である。 付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・火山帯・地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため地震が頻発し、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本周辺に集中すると言われているほど地震が多い。そのため、震度1クラスや2クラスくらいの地震は日本のどこかでほぼ毎日のように起きている。また、火山活動が活発な事から、火山性土壌が多くこれが日本列島の自然を豊かにした面もある。また温泉が多い事も火山の恵みと言える。 河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短い事、海抜高低差が急な事もあり、流れは比較的早い。集中豪雨が発生した時、堤防を決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所はあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも日本河川の特色である。 日本の範囲
気候大半の地域は温帯に属する。南方の諸島は亜熱帯、北方は亜寒帯的気候を示す。海洋性気候だが、モンスーンの影響を受け、四季等寒暖の差は大きい。 冬季はシベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海では暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため日本海側を中心に国土の約52%が、世界でも有数の豪雪地帯となる。太平洋側では空気が乾燥した晴天の日が多い。 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。また、台風も多い。ただし、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。 また日本は、比較的降水量の多い地域でもある。主な要因は日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmとされる。 地域・広域行政区画詳細は「日本の地域」を参照 日本は都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。ただし、地域区分(地方区分)には揺れが見られる。また、一部の市などは行政上は別途政令指定都市、中核市、特例市、特別区に定められているほか、各都道府県を、さらに細かく分けた市町村という行政単位や、町村をいくつかまとめた郡がある。北海道には独立出先機関として14の支庁が置かれている(全国市町村一覧参照)。 以下に、日本の地域(地方)と47都道府県を示す。地域(地方)は一般的なものを示した。太字は都道府県名で、左の数字は下の図の数字と対応している。 北海道本州
四国
九州沖縄主要都市詳細は「日本の市の人口順位」、「都市圏 (総務省)」、「都市雇用圏」をそれぞれ参照
人口詳細は「日本の人口統計」、「都道府県の人口一覧」をそれぞれ参照
年齢構成1970年代以降、急速な少子化、高齢化が進行しつつある。それに加えて、戦後のベビーブームで誕生した年齢層で人口の多い団塊の世代が相次いで定年を迎えるため(2007年問題と呼ばれる)、被扶養人口の爆発的増加が危惧されている。 年齢5歳階級別人口 年齢5歳階級別人口
地域別分布日本の各地方の人口は次の通りである。
日本には、100万人規模以上の人口を有する大都市が、各地方(四国地方、北陸・信越地方を除く)に点在している。国民の多くはこれらの大都市、またはその周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家としては世界有数の高さを示す(→人口密度)が、都市部では沿岸の平野部に集中しており、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に、東京を中心とした首都圏の人口は、日本の人口の約3分の1を占め、世界最大の都市圏を構成している。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。 人口の上位3都府県は次のとおり。 人口密度の政令指定都市上位3市は次のとおり。 その他の日本の政令指定都市の人口と人口密度は次のとおり。
政治日本の政治は、日本国憲法に基づいて運営されている。 日本国憲法1946年(昭和21年)11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日施行。 日本国憲法は、憲法第13条個人の尊厳(個人の尊重)をその根本に置き、下記三つを三大原理としている。 これらの理念を実現するため、統治機構は権力分立(三権分立)に基づいて配され、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に属する。 象徴天皇制天皇は、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と定められ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」ものとされる(同条)。また、その地位(皇位)は世襲によって受け継がれ、国会の議決する皇室典範の定めるところによって継承される(憲法第2条)。天皇は、憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項)。ただし、国事行為のほか、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。 日本国内外にて天皇は国家元首として遇される。例えば、オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているが、日本で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。また、CIA各国要覧の日本の項では、「chief of state: Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」と明記している。さらに、日本は「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」というのが、日本国政府の公式見解である[46]。この様に立憲君主制と考える場合、君主(天皇)は元首となる(イギリス、デンマークなど)。いずれにせよ、天皇が国家元首であるか否かといった問題は、結局はそれぞれの定義によるものであることに留意を要する。現在の所、日本では、国家元首が誰かという規定は存在しない。 国の政治
国会は、国権の最高機関にして、国の唯一の立法機関と日本国憲法上定められている。
国の政治は、行政権を有する内閣が立法権を有する国会(議会)に対し連帯責任を負う議院内閣制を採用している。 立法権を有する国会は、衆議院と参議院の二院からなる二院制(両院制)の議会である。国会は「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員(衆議院議員、参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院は参議院より強い権限が与えられている(衆議院の優越)。これは、衆議院には解散があり、任期も短い(衆議院は4年、参議院は6年)ため、衆議院の方がより民意を反映しているためと説明される。 行政権を有する内閣は首長たる内閣総理大臣(首相)と、その他の国務大臣からなる合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員、参議院議員のいずれでもよい)でなくてはならない。国会がその決議により指名した人物は、天皇により儀礼的形式的に任命され、内閣総理大臣に就任する、。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならない。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。また、内閣は衆議院の解散権を持つ。 国会では、国会議員のみが法案提出権を持つ。ただし首相をはじめ内閣は、国会議員で構成されている。日本では、国会で審議される法案の大多数は内閣が提出する政府提出法案(内閣提出法律案、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)は少ないというのが現状である。立法に関し、選挙により選ばれた議員による議員立法を基本とすることが、民主主義国家では求められる。しかし、政府提出法案は、内閣の下に置かれる行政機関(省庁)が国会の多数を占める与党との調整を経て作成するため、行政機関の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力は、とても強い。なお、日本では、代々政治家になる家系がしっかりとした地盤を持って選挙活動を行えるため、いわゆる世襲議員が多い。 裁判所は司法権を有し、法令審査権(違憲立法審査権)を持つ。これは、法令や行政行為などの合憲性を審査して、最終的に判断する権限である。もっとも、裁判所はいわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えることが多い。 戦後政治の流れ国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に結党された日本社会党(社会党)とともに、55年体制と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組み、社会党は野党として自民党と対立・協調しながら国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間は自民党単独政権が続いた。 1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣が成立したことで、55年体制は崩壊し、自民党は政権を離れた。翌1994年(平成6年)6月に、自民党・社会党・新党さきがけの自社さ連立政権である村山内閣が成立したことで自民党は政権に復帰。次の橋本内閣以後、小渕内閣では自由党との連立(自自連立)、同じく小渕内閣で公明党を加えた連立(自自公連立)、森内閣・小泉内閣で自由党が抜けて自由党の一部からなる保守党(保守新党)が残った連立(自公保連立、自公保新連立)、保守新党が解党した連立(自公連立政権)など、常に連立政権を組むことで、自民党総裁が内閣総理大臣となっていたが、2009年8月の衆議院議員総選挙で自民党は大敗。衆議院第1党から転落し、民主党政権が誕生した。 2009年(平成21年)9月現在、内閣総理大臣は民主党代表の鳩山由紀夫で、民主党・社会民主党・国民新党連立政権(民社国連立政権)である鳩山由紀夫内閣が組まれている。 地方制度日本国憲法は、地方自治の制度を定める。地方自治は、地方公共団体が担う。地方公共団体は、基礎的地方公共団体である市町村と広域的地方公共団体である都道府県の二段階の体制をとる。 基礎的地方公共団体としての市町村は、市が782、町が827、村が195の合計1804あり、このほか東京都の都心部に23の特別区がある(2007年(平成19年)4月1日現在)。市町村には、執行機関である市町村長と、議決機関である市町村議会(または町村総会)が置かれる。市町村長と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。市町村は、その財産を管理し、その地域の事務を取り扱い、行政を執行する。また、市町村は、法律の範囲内において条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、一部の権限が都道府県から委譲される。 広域的地方公共団体としての都道府県は、都が1、道が1、府が2、県が43の合計47ある。都道府県には執行機関である都道府県知事と、議決機関である都道府県議会が置かれる。都道府県知事と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。都道府県は、市町村を包括し、より広域的な行政を行う。都道府県も、法律の範囲内において条例を定めることができる。 現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消してより広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。 法律詳細は「日本の法令」、「日本の刑事司法」、「日本の民事司法」を参照 日本では、日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例などの各種法令が定められる。裁判所は、すべての法令が憲法に適合するか否か判断する法令審査権(違憲立法審査権)を持ち、最高裁判所がその終審裁判所である。 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの基本原則と、統治機構を定める成文憲法であり、硬性憲法に分類される。日本国憲法は、1946年(昭和21年)に公布され、翌1947年(昭和22年)に施行されて以来、一度も改正されていない。長らく、主に戦争の放棄と戦力の不保持を定めた9条を巡って、憲法改正論議が行われている。なお、一部には現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして、無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。 憲法と、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の5つの法律を総称して六法という。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法律学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。民法は民事一般法であり、刑法は刑事一般法である。商法は商事一般法であるものの、企業に関する定めの多くは会社法に分けられた。民事訴訟法と刑事訴訟法は、それぞれ民事訴訟と刑事訴訟の手続法である。 日本の刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料と没収の刑罰が定められている。死刑制度のあり方を巡っては、日本国憲法制定当時から議論がある。議論の詳細は、死刑存廃問題#日本での動きを参照のこと。廃止派は国会や社会で運動を続けてきたが、国会議員と国民の中で多数派を形成できていない。日本における死刑の判決数は1971年(昭和46年)~1987年(昭和62年)、1989年(平成元年)~2003年(平成15年)の10件未満と比較して2004年(平成16年)・2005年(平成17年)は10件台、2006年(平成18年)・2007年(平成19年)は20件台に増加した。死刑囚は1948年度末は39人、1953年度末は93人に増加、1960年度末は51人に減少、1968年度末は82人に増加、1977年度末は16人に減少、2007年度末は107人に増加した。執行数は2007年(平成19年)度に1977年(昭和52年)以後では最多の9件に増加し、先進国で唯一、死刑執行数が増加傾向である(執行数が増加するか減少するかは法務大臣による差が大きいので増加傾向が続くか減少傾向になるかは未定である)[47][48][49][50][51][52][53][51]。判決数・執行数・死刑囚はアメリカ合衆国より少ない。 治安詳細は「日本の警察」、「日本の犯罪と治安」、「日本の刑事司法」をそれぞれ参照 日本は法治国家であり警察権は法に従い行使される。日本の治安維持制度は内閣府の元に設置される国家公安委員会・警察庁と各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造になっている。各委員会は予算などの決定や大綱などの方針策定であり、実務は警察庁・警察本部が執り行っている。また、警察庁自体は指揮監督を主としており、実際の捜査などの業務は警察本部やその下部組織(警察署など)が運営している。日本固有の制度として交番制度があり、地域治安の確保の役割を担っている。警察組織とは別に沿岸警備隊・国境警備隊としての業務を目的に海上保安庁が国土交通省の外局に設置されている。 日本は銃刀法により銃・刀剣などの武器の所持を厳しく制限している。UNODC(United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、国連加盟192国のうち犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告している国の中で、日本は殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率は著しく低く、治安が良い国である(国の規模や質には大きな差があるので、国別の単純比較は比較対照として適切でない場合もあるが、日本は先進国である西欧・北欧諸国よりも暴力犯罪の発生率が低い)[54][55][56][57][58]。日本の暴力犯罪の発生率が世界の諸国と比較してなぜ著しく低いのかについては、制度的なもの、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さに求めるものなど諸説あるが、厳しい銃規制もその一つとしてあげられている(ただし、銃規制をしている国は日本以外にも多数ある。イギリスの銃規制は日本と同等、罰則を考えると日本以上に銃規制が進んでいるが、殺人事件に占める銃を使った犯罪の比率は日本の倍以上である)。 日本の犯罪に関する資料は、法務省は1960年度版以後の犯罪白書[59]で1926年以後の犯罪統計を、警察庁は警察白書[60]と警察統計[61]で1946年以後の犯罪統計を公開している。人口10万人中の刑法犯罪(刑法以外の特別法に対する犯罪は含まない)総数の発生率は1926年は1,179.2件、昭和金融恐慌・昭和恐慌・世界恐慌時代の1926年~1933年は増加傾向で、1933年は第二次世界大戦終結前の最多の2,301.6件、日中戦争が進行した1934年~第二次世界大戦が終結した1945年は減少傾向で、1945年は1926年以後の最少の986.3件である。第二次世界大戦終結後の1946年~1948年の期間は増加傾向で、1948年は2,004.0件である。1949~1954は減少傾向で1954年は1,541.7件、1955~1970年は増加傾向で1970年は1,846.2件、1971~1975年は減少傾向で1975年は1,495.2件、1976~2002年は増加傾向で2002年は1926年以後の最多の2,897.5件、2003~2006年は減少傾向で2006年は2,251.7件である。 1926~2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の1位は窃盗であり、2006年度の比率は53.3%である。1959~2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の2位は自動車事故による業務上過失致死傷(自動車事故以外の業務上過失致死傷は除く)であり、2006年度の比率は28.7%である。2006年度の刑法犯罪総数に対する窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷の認知件数の合計の比率は92.0%である。日本の刑法犯罪総数の増減は、窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷罪の増減が大きく影響している。 暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、1920年代後半~1930年代前半に第二次世界大戦終結前の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1926年は4.14件、誘拐は2.46件、強姦は1933年は2.53件、傷害は1935年は42.29件、強盗は1929年は3.80件、放火は1931年は3.99件)した。暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、日中戦争が進行した1930年代中期~第二次世界大戦終結前後の1940年代中期は減少傾向で、第二次世界大戦終結前の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1944年は1.25件、誘拐は1945年は0.03件、強姦は1946年は0.81件、傷害は1945年は6.23、強盗は1941年は1.59件、放火は1945年は0.77件)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、第二次世界大戦終結後の1940年代後半~1960年代前半は増加傾向で、第二次世界大戦終結後の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1954年は3.49件、誘拐は1951年は0.63件、強姦は1964年は7.06件、傷害は1958年は80.63、強盗は1948年は13.57件、放火は1950年は2.26件)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、前記の第二次世界大戦後の最高値を記録した後は、単年度や短期的な増減はあっても長期的には減少傾向で、1980年代・1990年代・2000年代は第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1996年は0.97件、2007年は0.94件、誘拐は1983年は0.06件、2007年は0.16件、強姦は1996年は1.19、2007年は1.38件、傷害は1995年は13.92件、2007年は24.25件、強盗は1989年は1.29件、2007年は3.53件、放火は1989年は1.18件、2007年は1.19件)し、第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少に近接した数値で推移している。財産犯罪や特別法に対する犯罪の各財種の発生率は、第二次世界大戦終結後は暴力犯罪と比較して、1946~2007年の期間に増加期間と減少期間を繰り返している[62][63][64][65][66][67][68][69][70][71]。 外国人犯罪「外国人犯罪」も参照 2008年の来日外国人(特別永住者を除く)の刑法犯の検挙件数は31,252件、検挙人員は13,885人となっており、1990年の10,000件、5,000人以下から大きく伸びている[72]。来日外国人総検挙件数の内訳は中国人39.8%、ブラジル人15.2%、韓国人(特別永住者は対象外)8.7%であり、総検挙人員の中国人35.0%、韓国人(特別永住者は対象外)11.5%、ブラジル人7.9%となっている[72]。また、暴力団と来日外国人が結託して犯す組織犯罪が増加している[72]。外国人登録者は、日本の総人口の1.74%にすぎないが[73]、暴力団構成員に占める在日韓国・朝鮮人の割合は30%を占めている[74]。 安全保障詳細は「日本の軍事」、「防衛省」、「自衛隊」、「自衛隊法」をそれぞれ参照 日本国の安全保障は自衛隊と日米安全保障条約に基づく日米同盟とによって担保されている。 事実上の軍事組織として自衛隊を有し、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊がそれぞれ陸軍、海軍、空軍に相当する。担当省庁は防衛省、最高指揮官は内閣総理大臣である。 準軍事組織は沿岸警備隊に相当する海上保安庁を持つ。日本は現在、陸上の国境を持っていないため国境警備隊は持たない。国境警備は主に海上保安庁の任務であり、海上保安庁では対処できない事態が発生した時には海上自衛隊が担当する。警察は治安維持を目的とする文民警察のみを持ち、SAT等の対テロ部隊を擁する。 また、日米地位協定によって在日米軍に施設が提供され、日米安全保障条約にもとづいて在日米軍が駐留している。 特徴自衛隊は専守防衛の観点から、陸上自衛隊は国土防衛と災害派遣、海上自衛隊は対潜水艦戦能力と対機雷戦能力、航空自衛隊は迎撃戦と陸上・海上部隊の支援を目的とする編成をしている。自衛隊は外国に対する侵略戦争や軍事介入および国際紛争を解決するための軍事力の行使を目的とする兵器は保有していないため、国外への軍事力の展開投入能力は低い。自衛隊は1993年のカンボジアへのPKO派遣以後は、外国に対する侵略戦争や軍事介入および国際紛争を解決するための軍事力の行使以外の目的で、自然災害や戦争その他の人為的災害の被害者への緊急支援や復興支援やインフラ建設の目的、および国連安保理の決議に基づく治安維持活動目的の自衛隊海外派遣を積極的に行っている。政治的には日本に対して他国が陸上から発射するミサイルで日本を攻撃または現在進行形で攻撃しようとしている場合に、ミサイルの発射元である基地に対する敵地攻撃についての議論が行われており、自衛隊の任務は時代と共に変化している。 日本は2009年現在で、第二次世界大戦終結後の64年間および連合国との(サンフランシスコ)講和条約発効後の57年間、外国に対する侵略戦争や軍事介入および国際紛争を解決するための軍事力の行使を経験していない。厳密には朝鮮戦争の時に海上保安庁の機雷掃海艇を派遣し、湾岸戦争停戦後にペルシャ湾に海上自衛隊の機雷掃海艇を派遣している。海上自衛隊の自衛艦隊は古くから遠く海外にも派遣されており、陸上自衛隊、航空自衛隊も近年は自衛隊海外派遣に出されている。自衛隊は戦闘目的以外の目的で国外に派遣されているが、他国の軍隊や武装民兵組織と交戦した経験はないので、実際の戦闘においての能力は未知数である。 冷戦の時代、日本の最大の仮想敵国はソビエト連邦であり、陸上自衛隊を始め、各部隊の配置は北海道・東北に重点が置かれていた。しかし、ソ連が崩壊し、冷戦が終結して以降は、軍拡を続ける中国・北朝鮮が日本にとって最大の脅威となっている。これらの脅威に対抗するため、部隊の西方移転が進められている。しかし、広い敷地と大規模な工事を伴う駐屯地の移転は簡単ではないため、あまり進んでいない。 自衛隊の兵器は日本の高い基礎工業力を生かし、車両・艦船の多くと一部航空機は独自開発であり、他国製品であってもライセンス生産を行うなど、出来る限り兵器を国内で調達する傾向がある。 防衛費2009年(平成21年)の防衛予算は4兆7741億円(本体予算4兆7028億円+沖縄に関する特別行動委員会費112億円+米軍再編関係費602億円)[75]、前年比で55億円(0.1%)減で、2002年(平成14年)をピークに2003年(平成15年)から2009年(平成 21年)まで7年連続で微減傾向[76]である。2008年(平成20 年)の国内総生産 (GDP) [77]に対する防衛費[78]の割合は 0.94%であり、ストックホルム国際平和研究所の統計による、世界全体のGDPに対する軍事費の割合2.4%[79]と比較すると、世界の平均値の39%である。ストックホルム国際平和研究所およびCIA World Factbookの統計によると日本のGDPに対する軍事費の割合ランキングは世界の150位前後である[80][81]。日本は国の経済力に対する防衛費の割合を著しい低水準に抑制する政策を実施している。また、自衛隊の兵員数や戦車数、作戦機数、軍艦数などから計算される部隊規模はどれも小さく、同盟国との相互補完や質の向上によって不足分を補う状態が続いている。近年は、仮想敵国や周辺国との軍縮条約などに基づく協調的軍縮ではなく、日本だけが自主的で一方的に軍縮する傾向が継続している。ストックホルム国際平和研究所の統計によると、1999年~2008年の10年間の軍事費の増減率[82]は、中国が194%増、ロシアが173%増、韓国が51.5%増、日本は1.7%減であり、仮想敵国や周辺国に対する防衛力が相対的に低下している[83]。 ただし、日本の防衛費総額をドル換算して世界各国と比較した絶対額は上位グループになる。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の統計によると、2008年度の日本の防衛総予算は、為替レートベースで463億米ドルで、1位のアメリカ、2位の中国、3位のフランス、4位のイギリス、5位のロシア、6位のドイツに次いで世界7位である[82]。その理由として、まず日本のGDPそのものが大きく国力が高い事、日本円が強い通貨であること、広大な領海とシーレーンを持つ事、周囲を軍事大国である仮想敵国に囲まれていること、規模が相対的に小さい故に人員・兵器ともに高品質なものを目指していることがあげられる。さらに他国に比べて人件費が高いこと、高性能・高コストな兵器を調達する傾向にあること。兵器の国産化を指向しているにもかかわらず武器輸出三原則により兵器の輸出を自粛しているため兵器単価が下がらないためなどの理由が挙げられる。 この国防費のコストを下げるため、武器輸出三原則の見直しが一部議員から提起されている。 隊員数と文官数2009年(平成21年)における自衛官の定員(千人未満は四捨五入)は24万8千人、そのうち陸上自衛隊が約15万2千人、海上自衛隊は約4万6千人、航空自衛隊は約4万7千人である。自衛官の実数は23万3千人、そのうち陸上自衛隊が約14万4千人、海上自衛隊は約4万3千人、航空自衛隊は約4万4千人である。予備役に相当する予備自衛官は約4万8千人で現役隊員に対する割合が非常に低い。防衛省の文官は2万2千人である[84]。 周辺国の脅威2008年(平成20年)現在、防衛省は北朝鮮の核兵器開発を重大な脅威とみなしている。他に中国の急速な軍拡や経済発展を背景にしたロシアの復調などが懸念材料とされる。中国は21年連続で国防費が二桁成長という急速な伸びを続けており、軍事力の近代化が進められている。その上、中国の安全保障政策は実態や将来像、意思決定の過程が明確にされていないため、東アジア地域の安全保障への悪影響が懸念されている。将来、中国が東アジアの軍事バランスに大きな影響を与え、場合によっては日米と衝突する恐れがあるという指摘もある[85]。このような情勢の下、日本は中国との対話や交流で信頼関係の強化を図る一方、日米同盟の維持・関係強化を進めている。アメリカ合衆国とは日米安全保障条約によって軍事同盟の関係にあり、在日アメリカ軍が駐留している。さらに、オーストラリアとは日豪両国の安全保障に関する共同宣言が2007年(平成19年)3月に調印され、自衛隊とオーストラリア軍とのより緊密な協力が検討されている。 防衛と政治日本国憲法発布に伴い、主権者は天皇から国民へと変わり、文民の代表者たる内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮官となった。戦前に軍が統帥権を主張して政治に深く介入したことへの反省から、文民統制の堅持に強い配慮がなされている。 日本は日本国憲法の規定を根拠に、紛争解決のために軍事力を行使する事を放棄しているが、近年は国際社会の要請から海外派遣が増えている。特に湾岸戦争のペルシャ湾派遣で日独の派兵拒否が海外から非難されたことが方針転換の契機となった。また、旧防衛庁の省昇格では海外活動や在外邦人の輸送が本来任務に格上げされた。 日本国内では、第二次世界大戦の終結まで軍事優先の政策が続いた事への反発から、政治や国民意識から軍事・防衛の政治的議論はタブー視される傾向が強かったが、近年では過去ほどタブー視されないようになってきており、武器輸出三原則の見直しや、敵基地攻撃能力の議論などが国会でも議論されるようになっている。 自衛隊出身の政治家として、閣僚(防衛庁長官)になった中谷元や、佐藤正久、村井嘉浩などがいる(将官・佐官出身の国会議員の一覧などを参照)。 シーレーン防衛国内の安全保障としては、1980年代より海洋国家論の高まりと同時に、軍事的な自衛のみならず、経済・食糧・エネルギー・環境などの総合安全保障の重要性が、認識されるようになっている。各国との相互依存関係や協力関係、経済関係を安全保障の助けとする考え方である。ハードな安全保障としては、通商(海戦や通商破壊などの危険回避)や漁業の安全を維持する上でシーレーン防衛が不可欠であるとの見解があるが、一方で専守防衛の原則や集団的自衛権を行使できないという制約がある。世界中と貿易を行う日本のシーレーンが世界に広がっていることから、日本の自衛隊ですべてのシーレーンを防衛することは困難である。世界に軍事展開をし、同じく海洋国家として海洋の自由を標榜するアメリカ合衆国と安全保障上の協力を行うことで、日本の防衛コストを抑制した形での有効な海洋の安全を図っている。一方で、マラッカ海峡などの海賊やテロは東アジア全体の共通危機となっている。非対称戦争に対応した国際警察力の強化と、紛争の予防も課題となっている。 核抑止日本の主たる仮想敵国のうち、中国とロシアが核兵器の大量保有国である上、北朝鮮が核兵器開発成功を発表している。それに対して日本は、民間では核保有すべきとの意見もあるが、講和条約後発効後の歴代政府および国会に議席を持つ全ての政党は日本の核兵器開発と保有を否定しており、今後の予定もない(非核三原則にのっとり日本に核兵器が存在しないということになっている)。そのため、核抑止は専ら同盟国である米国の核の傘に頼っている。 評価日本は第二次世界大戦以降、60年以上にもわたって直接的な戦闘行為を経験していない(ただし、連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊が派遣されており、戦死者も出ている)。海上自衛隊の自衛艦隊は古くから戦闘目的以外で海外に派遣されており、陸上自衛隊、航空自衛隊も近年は戦闘目的以外で自衛隊海外派遣に出されている。しかし、それでも他国と交戦した事はないため、実際の戦闘においての活躍は未知数である。 定評ある海外製兵器やそれと同等かより高性能と見られる国産兵器を多数持つこと、公開演習などを通じて知られる高い練度などが評価されている。 イギリスの経済誌エコノミストの調査部門であるEIU(Economist Intelligence Unit)が、平和度の指標となる24項目[86]を数値化した 2009年(平成21年)の平和度指数の国際比較(世界平和度指数)[87]によると、日本は戦争・内戦・テロとそれによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価された。 外交「日本の国際関係」および「Category:日本の国際関係史」も参照 日本政府は外交の基軸として、国際連合を中心として各国と幅広い外交を行い、援助および貿易を行っている。伝統的に地理的に近い東アジア各国と強い関係を保ってきた。さらに、同盟国のアメリカ合衆国を最重要視し(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)ている。東南アジアやオーストラリア、西ヨーロッパ各国との関係も深い。 国際連合かつて国際連合の前身である国際連盟を脱退し、第二次世界大戦を連合国 (United Nations) と戦い敗れた(現在も敵国条項は削除されていない)。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し国際連合(国連)への加盟を果たした。国連においては非常任理事国として最多の10回選出されている。また世界第2位の国連分担金を支払っている。国連改革の一環としてドイツ、インドなどと常任理事国の拡大と加盟を訴えているが、拒否権を持つ現常任理事国、特にアメリカと中国の反対に遭い、挫折を余儀なくされた。 国連の日本人職員の数は少ない。その理由として日本語が国連公用語に数えられていないこと、国連で軽視されていること、(事実上アメリカ至上主義で)国連が軽視されていること等が指摘されている。日本の知識層の多くは、その多大な貢献に比べ、その恩恵及び評価を受け切れていないと指摘している。 日本は海外派兵には消極的で、国連の武力行使自体は支持しても、経済援助のみという慎重姿勢を取ることが多かった。しかし、こうした姿勢には国際的な批判が強く、湾岸戦争においては日独は巨額の戦費負担をしたにもかかわらず、戦力を出さなかったため、国際的に非難され、特にイラクに攻め込まれたクウェートの評価は最低に近かった。こうした事から、日本は自身が世界から、軍事的役割も期待されていると理解し、近年では海外派兵についての世論も変わりつつある。PKO協力法などの法案が成立し、いくつかの課題を残しつつも自衛隊を海外に送るための法的根拠が整った。また、防衛庁が防衛省に昇格して海外派遣が主任務へと変わった。以降、イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなど、軍事力を外交に活用する機会も増えている。 アメリカ合衆国アメリカ合衆国とは、軍事・経済・政治全てにおいて緊密かつ重要な関係を築いている。古くは黒船来航から始まる経済協力はアメリカの経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争(第二次世界大戦)では東アジア・西太平洋地域(当時の大東亜)で、4年間戦った末降伏し、米軍を主軸とした占領軍に占領され、今も米軍基地が日本中に残っている。 戦後の安全保障は日米安保条約を基礎としている。日本は米軍に基地と予算を提供し在日米軍を受け入れている。沖縄その他の在日米軍の軍事基地問題を巡り、日本・アメリカ合衆国の間で政治的課題がしばしば発生し、両国民の感情問題に発展することがある。また経済面において貿易競争や市場参入障壁など慣習面での差異がしばしば両国民の感情的な摩擦を招いている。 アメリカ合衆国は犯罪人引渡し条約を結ぶ数少ない国のひとつである。 東アジア歴史的には日本の外交は地理的に近い中国や朝鮮など東アジア諸国を中心に行われていた。欧米をはじめ世界中との国交が盛んになるのは明治維新以後の事である。近隣であるが故に地政学上の対立が常に存在している。すなわち、日本と韓国、台湾はそれぞれ極東米軍と同盟・協力関係にあり、北朝鮮は中国と軍事同盟を結んでいる。また韓国とは竹島で、中国および台湾とは尖閣諸島で領土問題を抱えている。 日本は漢字文化圏、儒教文化圏の一角であり、伝統的な日本の文化には東アジアの文化をルーツに持つ物が多い。代表的なものは雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道の習慣などである。明治以降は逆に西洋文化を取り入れて発展した日本の文化が東アジアに伝播することが増えた。 かつては日本領であった台湾と韓国は、現在でも重要な貿易相手である。中国も改革開放政策後は経済的な成長を遂げ、多くの日系企業が生産拠点を持つ。中国は2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカ合衆国を上回り、最大の貿易相手国となった。一方、北朝鮮に対しては経済制裁中である。なお台湾出身の歴史研究家・評論家で拓殖大学客員教授の黄文雄の分析によると、日中関係は「親善」ではなく「友好」であり、「呉越同舟」状態にあるという[88]。 第二次世界大戦敗戦前、世界が帝国主義時代だった頃、日本は軍事力を背景に東アジア地域に進出した。その事は歴史問題となっており、日本が歴史について発言するたび、中国、北朝鮮、韓国が発言内容が不適切と批判するサイクルが幾度となく起きてきた。 日本では、靖国神社参拝以降、日中関係は悪化し反日暴動などに代表される中国の反日運動が盛んに報道されたほか、北朝鮮の国家犯罪への反発が1990年代後半から高まっている。2008年(平成20年)6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査で、中国を好ましくないと答えた割合は84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で、最も高い割合だった。日本が中国に対する好感度は2002年には55%だったために、中国が強い反日感情を露わにした事が一因だと思われる。また日本人の中国旅行者も減少した。 一方、中国は前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、両国民の間は依然として反発していることが明らかとなった。しかし四川大地震の日本の自衛隊の救援活動で中国の対日感情は大きく変わり感謝の意が表れた。2010年以後中国が日本を抜かし経済大国として成長しているために、中国は無視できない存在となっている。
東南アジア東南アジア諸国とは基本的に友好関係を構築しており、タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本はこれら各国との自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。
以上のように、日本と東南アジアの関係は基本的に良好な状態にある。日本政府は東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行っており、東南アジア諸国との関係を重視している。また、この地域の海域(特にマラッカ海峡)は、日本が中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど日本の貿易上非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没している。その対策として、海上保安庁が東南アジア諸国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。 南アジア日本は南アジア各国とも友好関係を保っている。しかし、日本は被爆国であるため、インドおよびパキスタンが核実験を行ったことからこれら核保有国とは距離を置いていた時期もあった。特に、パキスタンに対しては1998年(平成10年)の地下核実験から2005年(平成17年)4月まで援助を停止していた。 しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相がパキスタンを訪問したのを機に有償資金援助を再開した。そしてインドは近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されており、外務省は2006年(平成18年)にアジア大洋州局の中に新たな部門として南部アジア部を設立している。またG4として共に行動するなど関係強化を目指している。さらに2008年(平成20年)10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言に署名し、日本にとって、インドはアメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[89]。 世界最貧国の一つとも言われるバングラデシュに対して、日本は経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。 中央アジア中央アジア諸国は、かつてシルクロード経由で日本に対しても文化的影響を持っていたが、近年の人的交流は少ない。また、経済基盤は貧弱な国が多く、さらに海に面していないために輸送コストなども高騰するなどの理由から、一部の希少な地下資源を除いて、貿易などの経済的関係も他地域と比べて活発とは言えない状況にある。 日本は、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンへの武力攻撃は支持したが、自衛隊はインド洋への派遣に留めている。 この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究など、学術関係での交流は活発である。バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに、日本は多額の援助を行っている。 西アジア西アジアは日本の主要な原油供給元であり、経済的には密接な関係を保っているが、文化的交流は比較的少ない。ただし、宗教的な対立要因がないために住民の対日感情は比較的良好とされる。また、イラク戦争では、第二次世界大戦後初めて、戦闘地域であるとの議論もされるイラクへ自衛隊を派遣した。インドとは対中国の立場から関係を深めている。 イスラエルイスラエルとは経済・文化ともにこれまでのところ交流は薄い。また中東和平に関しての日本の立場は中立であり、大臣・政府高官が訪問する際にはイスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等バランスが図られている。 ロシア日露関係は、領土問題や満州への進出、東西冷戦などで対立する時期が長かった。その緊張が最も高まった事件としては、1904年(明治37年)に始まった日露戦争や、太平洋戦争終結直前のソ連対日参戦などが上げられる。1986年(昭和61年)以降関係の改善が進み、現在は両国の間には盛んな経済的交流があるが、北方領土問題、漁民銃撃・拿捕事件・資源問題(サハリン2で突如開発の中止命令が出された)などが生じている。 また国民感情においては、近年の日本ブームによってロシア国民の対日感情は概ね良好である。しかし、日本側は前述の北方領土問題や油田問題なども手伝い、全体としては良くないとされるが、実際のところ国民の目がロシアへ向く機会があまりない。 ヨーロッパ第二次世界大戦以降、日本は西ヨーロッパを中心としたNATO諸国と、アメリカを挟んで間接的な同盟関係にあった。 ドイツは第一次世界大戦では敵対したが、第二次世界大戦では共に枢軸国として連合国と戦った。大戦後も、両国は焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国であり、重要なパートナーとしてイギリス、フランスをしのいでヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。さらに、政治の面でもドイツは日本と共に常任理事国を目指すG4のパートナーとして行動している。 また日本の皇室は、イギリスやスウェーデン、ベルギーなどの欧州各国の王室と深い友好関係を築いている。 中央アメリカ中央アメリカ(中米)諸国の中で、日本と最も関係が深いのはメキシコ合衆国である。明治の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦しめられてきた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる永田町にあるのはメキシコ大使館のみである。日本企業が多数メキシコに進出しているなど経済的な関係も深い。 その他の中米諸国とはそれほど人的・文化的交流はないものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を持っている。また、キューバなどの社会主義国家とも経済・文化両面で友好的な関係が築かれており、ペルー日本大使公邸占拠事件でも協力した(日本政府の要請に対し、キューバがゲリラの亡命受け入れを受諾)。 南アメリカ日本と南アメリカ(南米)は地理的に地球のほぼ正反対に位置しているが、1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をきっかけにペルーとの修交が始まり、1898年(明治31年)にロシアとの戦争に備えてアルゼンチンから軍艦リバダビアとモレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことから本格的な関係が始まることとなった。 また、かつて南米諸国は日本からの移民を大量に受け入れた経緯から、その関係は深い。特にブラジルでは、約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり、政治経済のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を保っている。また、ブラジルはG4として日本と共に国連常任理事国を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。 同じく多くの移民が渡り、ラテンアメリカで二番目に日系人人口の多いペルーは日系人大統領(アルベルト・フジモリ、スペイン語ではフヒモリとなる)が1990年代に就任したことで急速にその関係が緊密になったが、その後失脚し、後日フジモリは日本に政治亡命していた。 貿易関係ではチリとの関係が特に大きく、戦前から友好関係が続くアルゼンチン、パラグアイといった親日的な国家も多い。特にマルビーナス戦争(フォークランド紛争)中、アメリカ・イギリス・ECの再三の要請にも関わらずアルゼンチンへの禁輸措置を行わないなど、日本が採った独自外交は、アルゼンチンの知日家からは高く評価されている。 オセアニア・太平洋諸島日本はオセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳の会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取っている。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍が国連平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動や津波などの地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた共同宣言に調印した(安全保障協力に関する日豪共同宣言)。これにより、オーストラリアは日本にとってアメリカ合衆国を除いて安保分野で正式な協力関係を結ぶ初めての国となる。 また、南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領、もしくは占領地として統治下に置いていたこともあり、日本との関係は比較的深い。ミクロネシア連邦では日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系の大統領クニオ・ナカムラが就任しており、一部自治体で日本語が公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用している者は無く、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあってか、官民合わせて非常に親日的である。 アフリカ日本とアフリカ諸国は、地理的には遠く歴史的にもほとんど関わりがなかったこともあり、現在も人的交流などはさほど行われておらず、観光地としても一部を除いてそれほど人気があるわけではない。主に地下資源の輸入と工業製品の輸出という貿易のみの関係に終始していた。ただしアパルトヘイトで世界から孤立していた南アフリカ共和国には多くの企業が進出し、以前から比較的密接な関係を築いていた。 1993年(平成5年)には、ODAなど経済支援を含む経済的人的交流を深める目的の国際会議、アフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development。日本、国連、GCA、世界銀行共催)が開始された。 近年は日本はアフリカ諸国に大使館を増やすなど関係強化に乗り出している。その背景として中華人民共和国(中国)がアフリカ諸国との関係強化を行っている情況がある。中国がアフリカ諸国との関係強化を進めていることは、資源確保や国連の票固めなどが目的であると指摘される。アフリカ諸国との関係強化に関して、人的交流が少ない日本は弱い立場に置かれている。中国は現地に住む多数の華僑などを活用して面的攻勢を進めている。 なお、サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国を日本に招いた試合が行われており、良好な関係を築いている。 日本の国際問題領土問題日本はロシア連邦、中華人民共和国、中華民国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国との間で領土問題を抱えている。 北方領土詳細は「北方領土問題」を参照 ロシアとの間には北方領土問題 (千島問題)がある。これは、第二次世界大戦前の時点で日本が領有していた千島列島(ロシアは「クリル諸島」と呼んでいる)、南樺太(サハリン)において、第二次世界大戦の終結が決定的となる日本のポツダム宣言の受諾(1945年(昭和20年)8月14日)後に、ソ連軍が1945年(昭和20年)8月28日から9月5日にかけて、これらの領土に侵攻し占領、以後ソ連時代から引き継いだロシアが現在に至るまで実効支配しており、両国の間で領土問題となっているものである。これらの領土について、ロシア(ソ連)は、戦争によって獲得した領土であると主張している。一方、日本国政府は、歯舞群島と色丹島および国後島と択捉島は日本国固有の領土であるとして、ロシアに返還を求めている。歯舞群島・色丹島についてロシアは日ソ共同宣言を根拠に日本への返還を提示していたが、日本側が択捉島・国後島を含む4島の一括返還を理由に拒否した。また日本側からは、択捉島-得撫島間での国境策定にロシア側が同意すれば引き続きロシアによる統治を認めると言う提案が行われたが、この提案はロシア側から拒否されている。2007年(平成19年)になってロシア側から面積二分割案が提示されたが、なお解決される目処は立っていない。日本共産党は、千島列島全島が、日本の国土であると主張する(ソ連による千島占領がカイロ宣言などによって示された連合国の領土不拡大原則に反し、国際法上違法であるとの理由から)。一部には、南樺太ないし全樺太の返還を求める主張がある。 日中間の排他的経済水域詳細は「東シナ海ガス田問題」を参照 中華人民共和国(中国)との間では、東シナ海の排他的経済水域を巡っての領土問題が起こっている。これは東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いによるものである。日本は両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国はユーラシア大陸の大陸棚部分は中国の域内と主張する。国際的には日本の主張が大勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在議論は平行線をたどっている。 近年この問題が重要化したのは、この水域の境界周辺の地下に、豊富な天然ガスの存在が明らかになったからである。中国はこの問題に対して、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を、日本が主張する境界近辺(ただし、境界よりは外側である)に建設するなど強硬な姿勢を取っている。日本はこれに対して、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議している。また、中国に対抗して日本もこの海域での試掘権設定を行い、国内企業の一つがこれを取得した。中国側は日中での共同開発を提言しているが、日本側はこの共同開発を中国に有利な条件と認識しており、依然解決の糸口は見えていない。日本は国連の国際司法裁判所で判断を求めようとする立場を取っているが、中国はこの件を裁判所に提出しようとはしていない。 尖閣諸島詳細は「尖閣諸島領有権問題」を参照 尖閣諸島(中国名:釣魚台列島など)に対しては、日本のほか、中華人民共和国(中国)及び台湾(中華民国)が領有権を主張している。現在は日本が実効支配している。中国としては前号の経済水域問題の絡みもあり、また中台間の問題も絡み複雑化の様相を呈している。尖閣諸島の領土問題が表面化したのは、1970年代初頭に東シナ海において天然ガスが発見されたためである。中国と台湾の主張に対抗するために、日本の右翼団体が度々ここに上陸し、灯台を建設するなどした。この灯台は現在、日本国政府の管理下に置かれている。2005年(平成17年)、台湾の漁民が日本の海上保安庁による取り締まりに対し海上で抗議デモを行った。 竹島問題詳細は「竹島 (島根県)」を参照 竹島(韓国名:独島)は、日本の島根県、隠岐島から北西約157km、大韓民国、慶尚北道の鬱陵島から約92kmに位置する2つの岩礁からなる小島である。この島を巡り、日本は自国の領有権を主張しており、韓国は1950年代初頭から領有権を主張し始めて、対立している。 韓国併合以前に、竹島が日本と韓国(朝鮮)のどちらの領土だったかについては議論の対象となっている。竹島は、1905年(明治38年)の閣議決定・島根県告示による島根県編入で日本の領土となったが、韓国政府は「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張している。これに対して日本政府は「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張している。独立以降韓国は、李承晩ラインを一方的に設定し、李承晩ライン内に入った日本の漁船と漁民を拿捕し、釜山収容所に抑留した。また、漁船が相次いで銃撃され、多数の死傷者が出た(第一大邦丸事件など)。この頃から竹島領有問題が浮上した。その後の日韓国交正常化交渉で、日本側が李承晩ラインの不当性と竹島の領有を強く主張し、1965年(昭和40年)に李承晩ラインは廃止となった[90]。 1954年(昭和29年)7月に韓国海軍がこの島を不法に占領し、1956年(昭和31年)4月 から海洋警察が引き継いで駐屯している。これに対し、日本は韓国による不法占拠として抗議し続けている。また、日本は領土問題解決のために国際司法裁判所への付託を韓国に提案したが、拒否されている。 この島は韓国国民にとっては独立の象徴と考えられていることや、竹島周辺の海域が豊かな漁場であること、また莫大なメタンハイドレートが埋蔵していると推測されていることや大規模な海底油田がある可能性も指摘されており、このようなことがこの問題の解決を難しくしている。 なお、この海域周辺にはかつてニホンアシカが生息していた最後の海域でもあり、調査こそ行われていないが、生存の可能性がわずかながら指摘されているも、現状での調査は不可能で、何よりも韓国によって軍事要塞と化した竹島では既に絶滅したとの見解が強い。 その他その他、厳密な意味での領土問題ではないがいくつかの問題がある。
渡航日本人の問題日本人の安全近年、海外渡航する日本人の増加により、日本人が渡航先で犯罪に巻き込まれるケースが増えている。特に米国のアメリカ同時多発テロ事件以降は、中東をはじめ、テロ活動が盛んな地域では爆破事件や邦人の拉致、監禁事件などが多発している。有名な例としては、イラク日本人人質事件、アフガニスタン日本人拉致事件などが起き、2005年(平成17年)には武装勢力に日本人が殺害される事件も起きた。また2002年(平成14年)には日本人旅行客がニューカレドニアのリゾート地で、地域の風習や文化をよく知らずに現地の聖地とされる場所に無断で侵入したために、地元民に殺害される事件も発生している。 日本の治安は世界的に見ても最も良い方であり、特に殺人の発生率は2000年(平成12年)の時、低い順に第3位である。日本と海外では、治安に関する常識に大きな隔たりがあり、日本と同じような感覚で行動すると、犯罪に巻き込まれる可能性がある。海外への旅行においては現地の調査を詳しく行い、危険な地域には安易に近づかない事が望ましい。 日本人のマナー米最大手の旅行サイトExpediaが行ったアンケート調査では、日本人は2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった。「行儀がいい」「礼儀正しい」「物静かで慎ましい」「クレーム・不平が少ない」の分野でそれぞれ1位を獲得している[91]。 一方、一部の日本国民が現地において迷惑行為を行う事例も報告されている。
福祉社会保障制度戦前の日本では、社会保障は主に家族や地域社会での相互扶助によるものとされていたが、軍人をはじめ公務員には恩給制度があった。1942年に戦費調達の目的で制定された労働者年金保険が、日本の社会保障制度の始まりである。1944年に厚生年金保険法が発足、年金制度が民間労働者へも普及していった。また、これと並行して、民間企業においても、熟練労働者の長期雇用、年功賃金、企業年金、退職金制度といった、戦後の日本型福祉社会を担う企業福祉が普及していった。 戦後の日本は、日本国憲法が定める国民が健康で文化的な生活をする社会権の実現を目ざした。政府は、国民の生活において最低限の福祉サービスを児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年以前は失業保険)、障害者介護・自立支援、生活保護といった行政サービスとして提供しつつ、企業福祉を充実させる政策をとってきた。この過程で職域保険からこぼれ落ちた人の救済のため、1958年に国民健康保険が官庁や企業に組織化されていない国民を加入対象とし、1961年以降国民皆保険がほぼ実現した。また、企業年金や職域年金から外れた人を対象に1959年に国民年金が発足し、全ての国民を対象にした年金制度が整えられた。 1970年代以降、政府は家庭や企業、地域社会での共助を重視する考え方(日本型福祉社会論)を基調とした政策を採用した。職域ごとに分立した社会保障制度の一元化は実現せず、近年は企業福祉から疎外された非正規雇用者が増加する一方、アメリカ合衆国型の低福祉・低負担化[92]が目指され、その結果として健康で文化的な生活をする必要最小限の生活ができず、保険料が支払えない貧困層の存在が社会問題になっている。また、高齢化による医療費負担の増大に伴い、財政が逼迫した健康保険組合が増え、組合管掌健保および協会けんぽの保険料率や国庫負担率の引き上げが議論されている。現在、国民年金保険料や厚生年金の負担率は毎年引き上げられ、現役世代への負担は増しており、公的年金の世代間格差が問題になっている。 政府は社会保障費が増大する中、破綻に瀕した日本型福祉社会の立て直しを模索している。 健康厚生労働省 によれば、日本国民の2006年(平成18年)度の平均寿命は[93]男性79.0歳、女性85.8歳であり、世界保健機関 (WHO) によれば[94]世界一長寿である。また、健康寿命でも男性72.3歳、女性77.7歳(2001年(平成13年))となっており、これも世界一長寿となっている。 日本人の死因は、戦後すぐでは結核などの感染症が多かったが、現在では一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に脳血管疾患と、生活習慣病を中心とした慢性疾患が主である。しかし、今日でも日本人の結核死亡率は高い。 医療世界最低レベルの周産期死亡率・平均余命を達成している一方、WHOの2004年(平成16年)度の統計値によると、人口1000人あたりの医療職員数は、医師は1.98、歯科医師は0.71、看護師は7.79、助産師は0.19、薬剤師は1.21であり、経済的に豊かな国(国民一人当たりのGDPが20,000ドル以上)の中でも最低(最低グループ)[95]であり、開発途上国と比較しても日本より上回っている国は多数あることから、人口比の医療職員数の不足が指摘されている。GDPに対する保健支出の比率は7.8%、保健支出に対する政府の負担比率は81.3%で、経済的に豊かな国の中では標準的な水準である[96]。急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、国民健康保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、国民の負担は増加する傾向にある。国会・政府の医療費抑制の政策により、近年医療サービス水準は低下しており、病院の70%が赤字経営で、産科の廃止や夜間救急医療の廃止など医療サービスの機能停止が各地で問題となっているが、有効な対策が提示されていない。もっとも中小企業の赤字率は2006年(平成18年)の民間推計[97]で71.34%であり、病院経営が他の産業に比して不振であるということは示さない。これは税制に理由があり、家族経営の中小・零細法人の場合、法人収益を計上して株主配当により分配するより給与分配したほうが税制上有利になるという事情による。 日本では大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが後退しており、麻疹輸出国として以前より非難されている。また海外からの病原体移入や海外旅行者の帰国後の感染症・寄生虫症発症に対する態勢に危惧が抱かれている。 育児現在の日本は少子高齢化が進んでいる。明治以降、日本が近代化する過程で乳児死亡率低下、国力上昇により人口の激増が起こったほか、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により若年者ほど多いピラミッド状の人口構成だった。しかし、高度成長期以降は少子化が進み、一人の女性が生涯に産む子供の数は世界でも最少レベルの1.3近くまで低下、人口減少に転じた。その原因として、医学と医療技術の向上により死亡率が減少したこと、教育水準が向上し教育費負担が大きくなったこと、公的な育児支援制度が不足していること、長時間労働により育児の時間が不足するとともに仕事と育児の両立が困難なこと、核家族化によって祖父母の助けが減ったこと、地域社会の助け合いが薄れたこと、育児以前に結婚すら出来ない低所得者層が増大したこと[98]などが複合的な要因として指摘されている。政府は出生率の低下を深刻な問題と認識し、現在の人口を維持できる2.0〜2.1前後まで増加させようと考えているが、政府や社会として有効な対策がなされず、出生率が低い状況を解消できる見通しはたっていない。 介護経済的に豊かになったことと、医学と医療技術の向上により、日本は平均寿命と平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、それは高齢期の生活に介護が必要な人口の増加をもたらした。日本では要介護者の介護は伝統的には家族が行なっていたが、長時間労働により介護の時間が不足するとともに仕事と介護の両立が困難なこと、祖父母・父母・孫子の複数世代同居家族から父母と子の家庭に変化したこと、高齢者が夫婦2人や一人住まいの状況がよくあること、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因となって、家族による介護が困難になり、2000年(平成12年)に介護保険制度が創設され、介護を家族と行政と地域社会の協力で行う政策に転換した。しかし、制度や運用の経験が不十分なこと、介護の仕事は激務であるが介護報酬が低額で介護事業者や介護労働者が十分な収入を得られないこと、行政の予算不足により福祉に必要十分な予算が無いことなどの複合的な要因により、要介護者やその家族からの様々な需要に対して、必要で十分なサービスは提供できていない。 自殺警察庁の統計[99]によると、1978年(昭和53年) - 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、2003年(平成15年)の(34,427)27.0、男性は(24,963)40.1 女性は(9,464)14.5である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1991年(平成3年)の(21,084)17.0、男性は(13,242)21.7、女性は(7,842)12.4である。2006年(平成18年)は(32,155)25.2、男性は(22,813)36.6、女性は(9,342)14.3である。1978年(昭和53年) - 1997年(平成9年)は(20,788 - 25,202)17.3 - 21.1だったが、1998年(平成10年) - 2006年(平成18年)は(31,042 - 34,427)24.4 - 27.0である。厚生労働省の統計[100]によると、1955年(昭和30年) - 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1998年(平成10年)の(32,122)25.4である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1967年(昭和42年)の(14,268)14.2である。1961年(昭和36年) - 1974年(昭和49年)は(14,268 - 19,283)14.2 - 17.4だったが、1998年(平成10年) - 2006年(平成18年)は(29,671 - 32,414)23.3 - 25.4である。WHOの2007年(平成19年)の統計[101]によると、WHOに自殺統計を報告している101か国の中で、日本の自殺率は高い順に11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の経済的に豊かな国の中では高い順に1位である。政府は自殺問題を重要な課題と認識し、日本が先進国の中で最も自殺率が高い原因について、宗教的要因・日本人の死生観など様々な原因が仮説として提示されているが、現時点では原因は明確に解明されていない。ただし、諸外国と比較して、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘され、包括的予防対策の整備を求められている。2006年(平成18年)に自殺対策基本法[102]が制定されたが、自殺予防に関する基本的な考え方を規定しているが、具体的な政策・制度は規定していないので、自殺率減少は実現できず、政府や社会として有効な対策は実施されていない。 経済・産業詳細は「日本の経済」を参照 日本では資本主義の経済をとっており、日本は国内総生産(GDP、MER: ドル時価換算)比では世界第2位の経済力の大きい国であり、日本の経済動向は世界経済に大きな影響を与える。しかし1990年代以降はその比率を落としてきている。国内総生産 (GDP) は、ドル換算ベースで世界第2位、購買力平価 (PPP) で世界第3位である。一人当たりのGDPはOECD諸国の中で18位である。世界のGDPの総額に占める日本のGDPの割合は9.1%である。通貨単位は円 (¥, yen,JPY)。世界経済フォーラム(2008)によると、日本の男女平等指数は130国中98位と低く、これは先進国の中でも最低の水準であり、依然として男女格差は大きい[103]。 農林水産業他国と比較して生産量が多い農産物は、生糸、キャベツ、米、サツマイモ、タロイモ(主にサトイモ)、茶、ホップ。米は日本人の主食ではあるが、生産量は1100万トン(世界シェア1.9パーセント)にとどまる。これは他に米を主食とする諸国が多いためである。キャベツとタロイモ栽培は世界第5位。畜産では養鶏が盛ん。鶏卵採取量は世界3位である。漁獲高は2002年(平成14年)時点で世界第5位(440万トン)である。しかし、日本で消費される食糧の60パーセントを輸入に頼っているため、食料自給率は約40パーセントと世界的に見てかなり低い[104]。食糧輸入は世界各地から行っている。農業従事者の高齢化が進んでおり、将来の日本農業の担い手をどのように育成していくかが課題である。近年では国民の食の安全への関心が高まったことから国産ブランドの需要が回復しており、一部の農産物は高級食材として輸出されている。また、中国での魚介類消費習慣の広がりにより、水産物の輸出が急増している[105]。林業に関しては、1970年以降の外材の輸入自由化により競争力を喪失、一部のブランド木材の産地を除きすでに壊滅状態に追い込まれている。 鉱業日本の鉱業の中心を占めるのはイオウ、ヨウ素である。イオウは世界第5位(2001年(平成13年))320万トン、ヨウ素は世界第2位(2005年(平成17年))6500トンを採掘している。産出量では、天然ガス101千兆ジュールや石炭の302万トンが目立つ。少量ながら原油をも産出する(2001年(平成13年)時点で年間約37万キロリットル産出した)。 金属資源は亜鉛の4万3000トンを筆頭に、鉛、銅を産する。この3金属はいずれも非鉄金属として非常に重要である。しかし、いずれも国内消費量の4%、6.8%、0.02%しかまかなえていない。金(8.6トン)、銀(81トン)も採掘されているが、世界的にはシェア0.5%以下である。かつては両金属を大量に産出していた。 国内需要をまかなうだけの生産量がある地下資源は石灰岩(セメント原料)、珪石(水晶。ガラス・レンズ・光ファイバー・建築材料の原料)などごく少数である。 現在ではあまり資源としては利用されていないが、メタンハイドレートと呼ばれるものが日本近海に多数眠っていることが分かっている。これは採掘手法がまだ確立していないが、石油が将来的に枯渇したときのための、代替エネルギーとして注目を浴びているものである。 近年では都市鉱山という考え方が普及してきており、日本に蓄積されている貴金属・希少金属の埋蔵量は世界有数であるとの研究がある。廃家電や電子機器などからこれら希少金属をリサイクルする事業活動も広がりを見せている。 日本列島の地下資源は概して全体としての産出量は少ないものの、埋蔵されている鉱物の種類は非常に豊富で俗に「鉱物の博物館」[106]と呼ばれる。 工業原油・鉄鉱石などの原料を輸入して自動車、電気製品、電子機器、電子部品、化学製品などの工業製品を輸出する加工貿易が特徴であり、技術水準は世界トップクラスにある。最近は韓国や台湾からの電子部品や、電子機器の半製品輸入も増大している。輸出品輸入品共に電子機器が最大である。 トヨタやホンダ、日産など世界有数の自動車、自動二輪メーカーを擁しており、新車販売は世界第3位、保有台数は世界第2位である(詳しくは日本車を参照)。 日本の基幹産業は工業であり、特に素材・土木・造船・金属加工・機械・電気・電子工業などの製造業は世界最高水準にある。一方で航空機・宇宙・医薬品・バイオ・ITなどの新産業においては必ずしも最高水準ではない。一方、製造業では中国や韓国・台湾など新興国の成長に押されており、日本の製造業の収益率は1980年代をピークに下落を続けている。そのためナノテクノロジーや民生用ロボットなどに活路を見い出そうとしている。 金融業日本の産業は発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行の活動が経済に与える影響は大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかしバブル景気崩壊後は、直接金融への転換が進められている。 金融業ではバブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引いて1990年代初頭に金融不安を引き起こした。しかし政府主導で大合併が行われ、公的資金を注入してこの問題は強引に解決され、その後は超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。2006年(平成18年)に日本銀行はゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準は低く推移しており、個人消費の伸びが見られないなど経済回復が明確でないためにそれ以上の金利上げには至っていない(2007年(平成19年))。 国際経済2002年(平成14年)時点の主要輸出相手国は金額ベースで28.9%を占めるアメリカ合衆国、中華人民共和国 (9.6%)、大韓民国 (6.9%)、香港 (6.1%)、シンガポール (3.4%) である。アメリカ合衆国、東・東南アジアへの輸出で55%を占める。 輸入相手国は、アメリカ合衆国 (18.3%)、中華人民共和国 (17.4%)、大韓民国 (4.6%)、インドネシア (4.2%)、オーストラリア (4.2%)であり、以上で48.7%を占める。貿易収支は黒字である(2004年(平成16年)は約14兆円の黒字)。 主要輸出品は、金額ベースで自動車 (22.3%)、機械類 (21.6%)、電気機械 (20.5%)、鉄鋼 (3.7%)、化学薬品 (3.1%) の順である。主な輸入品は、電気機械 (12.2%)、機械類 (11.2%)、原油 (10.8%)、衣類 (5.2%)、天然ガス (5.2%)である[107]。 また、継続的な経常黒字により世界最大の債権国となっており[108]、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。 科学技術日本は世界的に見ても複数の分野で高水準の科学技術を保有している。国際特許出願数は米国に次ぐ世界2位、特許収入も米国に次ぐ世界2位の黒字国である。
経済・産業の歴史第二次世界大戦敗戦後、日本の経済は焦土から立ち直り製造業を軸に高度経済成長を果たした。日本の経済の規模は、1968年(昭和43年)に国民総生産 (GNP) ベースで資本主義諸国中アメリカ合衆国に次いで第2位となった。しかし1974年(昭和49年)の石油危機を境に高度経済成長は終焉した。その後、度重なる円高不況により生産拠点が海外に流出する「空洞化」が深刻化した。自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は独自の生産性向上施策でこの円高の波を乗り切り、現代日本を支える基幹産業となって世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退した。このため技術・知識集約産業への転換など、産業構造改革が必要と考えられている。近年、開発セクション(日本国内)と生産拠点の連携を密にしたり、技術流出を防ぎ競争力を保持する目的から、海外から国内に生産拠点を戻す動きも見られる。 1980年代後半の土地バブルとその崩壊による不況で、日本経済は空白の10年(失われた10年)とも呼ばれる経済成長率の低迷と金融危機などを経験した(趨勢としての実質経済成長は1990年代も続いている)。しかし2009年(平成21年)現在では株式取引量及び総額は、既にバブル期を越える量と金額の取引があり、非常に活発になってきている。さらに、設備投資も増加して緩やかな景気拡張期にある。 景気回復の一方で、格差問題が注目を集めている。日本は「国民総中流」と呼ばれる意識が浸透しており、貧困層は存在しないかのような意識が存在していたが、近年は経済格差が拡大しているという意識が広まり、また、日本でも貧困問題が存在することが広く知られるようになった。OECDの統計によれば、2005年(平成17年)度には日本の貧困率は15.3%で、OECD加盟国中、第2位となった。ただし、OECD加盟国30ヶ国中貧困率の統計をとっているのは17ヶ国に過ぎず、日本を除けば比較的貧困問題が深刻でない欧米とオセアニアが中心で、より貧困問題が深刻な旧共産圏や韓国・メキシコ・トルコなどは含まれていない。日本の貧困率が高くなった原因は、社会の高齢化による年金生活者の増加と、賃金の低い非正規雇用が増加していることが挙げられる。税制と社会支出は一般に格差是正(貧困層への所得移転)の機能を持つが、日本では所得移転の施策前と後では、後の方が「子育て階層」の貧困率が増している(子育て世代の貧困層から中高所得者への所得移転が行われている)ということが示されており、税制や社会政策による富の再分配は十分に機能していない。 また、1990年代における財政政策により日本の公的債務(国と地方の長期債務残高)は750兆円を超え、GDPに比較して債務の比率が高い国となった。日本政府の債務残高は一見大きく見えるが、公的年金制度や国民の資産形成の指向(貯蓄性向の高さやマイホーム指向、貯蓄型生命保険指向など)が影響し、金融資産を差引いた純債務は先進国の中では平均的なものである。 日本は明治以来、西欧型の民法典を導入し財産権を基礎とした資本主義を経済運営の基本方針としている。戦時体制の経験以降、物価統制や終戦直後の傾斜生産方式による生産、外貨準備にともなう割当制など旧通産省や旧大蔵省を中心とした護送船団型の経済運営が行われ、他の資本主義国家と比較して失業率が低い(2007年(平成19年)現在日本は3%台、他国は最高で5%台、10%台もある。)こともあり、「最も成功した社会主義国家」と言われていた時代があった。一方で人口に占める公務員比率は一貫して低く、経済に占める公的企業の事業規模も小さく、企業内福祉や家族内での相互扶助を重視した社会保障制度を構築することにより、諸外国に比べ小さな政府を実現している。近年では行政改革が叫ばれ、公務員数のさらなる削減・民営化が進んでいる。 交通国際交通においては、古くから北太平洋及び北東アジアの交通の要所として海運、航空において重要な位置を占めており、世界的に有数の規模の船会社や航空会社が存在し、世界各国との間を結んでいる。 国内交通においては、アジア諸国においてはもっとも早い時期から鉄道を導入した国の一つであり、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度成長期以降はモータリゼーションが進み、道路網、高速自動車道路網が発達している。 「日本の交通」も参照 航空日本航空が、1950年代以降日本のフラッグ・キャリアとして国内外にその路線を広げており、アフリカを除く全大陸へ就航している。現在も同社はアジアのみならず世界でも有数の規模を誇る航空会社として知られている。また、1980年代までは国内線のみを運航していた全日本空輸が現在はアジア圏への路線を中心に国際線も運航している。1990年代以降の規制緩和を受けて、スカイマークやスカイネットアジア航空などの新興航空会社が出現し、国内航空運賃の引き下げに一役を買った。地方部を中心に空港インフラが充実しており、国内に98もの空港を有している。その一方で、都市部(特に関東地方)におけるインフラは整備途上であり慢性的な容量不足となっている。そのため、航空運賃の低下と路線網の充実の足かせとなっている。 鉄道明治維新以降、国の重要政策として鉄道敷設が推進された結果、現在では全ての都道府県に鉄道が通っており通勤通学旅行などに多用されている。新幹線は都市間を結ぶ高速鉄道であり、空路に勝るとも劣らない地位を築いている。新幹線は在来線とは線路の規格が異なるため全国で開通していないが、整備が続けられている。都市圏では地下鉄網やモノレールがそれに加わる。さらに近年の環境保護志向により路面電車が見直されており、富山県などでライトレールの導入が行われている。1872年(明治5年)10月14日の新橋 - 横浜(現桜木町)間の開通を皮切りに明治時代以降に全国に鉄道網が急速に敷設され、国鉄やそれ以外の数多くの私鉄へと発展。日本の国力隆盛の牽引力となる。1964年(昭和39年)には新幹線が国鉄(現在のJR)によって導入された。1970年代までには私鉄、国鉄を含む多くの路線が電化され、世界に例を見ない規模で分刻み(実際の運転では秒単位)のスケジュールの運行を行っており、日本の鉄道はその規模、技術、運営ノウハウともに世界最高水準といわれる。2003年(平成15年)8月の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)開通により、全ての都道府県に鉄道が走る事となった。2004年(平成16年)時点で、鉄道の総全長は23,577 kmである。 「日本の鉄道」も参照 道路高度経済成長期以降に自動車産業を保護する観点から国内陸送の主力をトラックにすると決められたことなどもあって、全国的に道路整備や高速道路網の整備が行われた。しかし近年では都市部を中心とした渋滞の慢性化や高速道路使用料の高さ、駐車スペース確保の困難さや環境問題への対策として、鉄道や航空機などの公共輸送、船舶輸送などが見直されている。2004年(平成16年)時点で、舗装された道路の全長は1,177,278 kmとなっている。 「日本の道路」も参照 海運四方を海に囲まれた日本にとって、海運は欠かせないものであり、沿岸部に工業地帯や人口が集中している理由でもある。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が、19世紀後半から世界各国との間に貨物船や客船を運航してきた。現在も中東地域や東南アジアからの石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国との電化製品や自動車などが輸出されていく。国内航路においても大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航されている。また、造船分野においてもその技術力の高さから世界有数の規模を保っている。 自然
富士山は標高3776mの日本最高峰かつ日本の象徴とされる。
国土が南北に長く、また森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化によって、国土面積の広さに比べて、生息する動物と植物の種類は豊富である。 日本は四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低い。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や、南西諸島は古くから本土と比べ孤立した生態系を築いてきたため、その島固有の動植物が多数生息している。殊に、小笠原諸島においては「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。そのため、その島の名前がその動植物につけられたものも多数ある(例:小笠原諸島のオガサワラトンボ、オガサワラノスリ。南西諸島のうち、八重山列島の西表島に生息するイリオモテヤマネコなど)。 高度経済成長期以降の食卓の変化や海外の農産品の輸入問題などさまざまな要因により、近年農林水産業が大きく変化した。このため、田畑や人工林の放置、漁業資源の減少などの問題も発生している。 公害と環境破壊「日本の環境と環境政策」も参照 日本は1950~1960年代に四大公害病をはじめとした大規模な公害が発生した。そのため、日本政府は、1967年(昭和42年)の公害対策基本法制定をはじめとして、水質や大気汚染などの規正法を相次いで成立させた。これを受けて、日本企業はオイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年(昭和48年)~1976年(昭和51年)前後に集中して公害防止への投資を行い、1970年代以降は大規模な公害の件数は急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため「日本は公害対策と経済成長を両立させた」といわれている[109]。 しかし、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境対策と管理において、日本は多くの課題を抱えている。生態系においても、明治時代以降外来種による生態系の変化が起こり、トキやニホンオオカミの絶滅に代表されるような生物多様性の低下が起こっている。また、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど人間の生活への影響も出ている。 植物
桜は古来多くの和歌に詠まれ、また近世以降は日本を象徴する花とされる。
亜熱帯のものから亜寒帯のものまで植物の種類が豊富で、多様性に富む。国土のほとんどの地域で、一年の間に湿度の高い時期を経験するので、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物なども豊富。また、法定ではなく慣習的に菊と桜が国花もしくはそれと同等の扱いを受ける。この他各自治体でも独自の木や花を制定している。 日本の国土の約3分の2が森林である。亜熱帯から亜寒帯にわたるどの地域でも年間雨量は十分にあり、森林が成立可能である。平地の植生は、南側約3分の2は常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、それ以北は落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域ではさらに常緑針葉樹林、一部には落葉針葉樹林がある。南西諸島では熱帯要素が強くなり、多少ながらマングローブが発達する。 2009年(平成21年)現在、日本の森林面積は2,512万haであり、森林率は66%となっている。この数字は、1970年代以降、横ばい状況にあり、減少傾向にある世界各国の森林率から比べれば突出した数値となっている(参考:ブラジル57%、カナダ51%)。森林の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件により未生育の森林など)6%という比率となっている。このうち人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占めている。 人工林がここまで多い理由として、1950~1970年代前半、空前の住宅建設ラッシュが発生し国内の木材需要が逼迫し、その後1970年代後半~1980年代にかけて木材輸入制限が緩和、海外からの輸入量が急増すると一転して木材価格は暴落した。その結果、日本の山には採算の取れない人工林の多くが取り残されることとなった。人工林の手入れを怠った場合には、生育ができない、土砂の流出、水源のかん養が十分に発揮されない、年輪がマチマチで節だらけの商品価値の無い立木になる、そして伸ばし放題の枝や葉の影によって周囲の木々の光合成の効率の悪化などの問題が発生する。また放棄されたスギ林では、春先に大量の花粉が発生し花粉症の原因の一つとなっている。 動物哺乳類詳細は「日本の哺乳類」を参照 日本には100種強の哺乳類が生息し、そのうち固有種は3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州の間にあるブラキストン線、また南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島の間にある渡瀬線で区切られており、これらを境に、異なる動物群が生息している。 大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。 固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、および日本のラッコ個体群は絶滅。ニホンカワウソも絶滅の可能性が高い。日本犬や日本猫は、都道府県によって様々な品種がある。 鳥類500種を越える鳥類が観察されている。 四方の海に加えて、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。南北に長い弧状列島は、渡り鳥の中継地としても重要である。また、シベリアで繁殖する鳥の越冬地やさらに南に渡る鳥の渡りの中継地点として重要であり、東南アジア等で越冬した鳥が繁殖する地でもある。このように日本列島は渡り鳥が豊富に行き交う位置にある。近年日本国内の渡り鳥の中継拠点となる干潟の乱開発による減少や、日本で繁殖する鳥の越冬地である東南アジアの森林環境の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。 日本の固有種はメグロなどがある。国鳥はキジ。日本のトキの個体群は絶滅。現在佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。 人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来日本文化の中で親しまれてきた。 爬虫類・両生爬虫類・両生類はいずれも亜熱帯に種類が多く、日本では南西諸島に半分以上の種が集中する。これは島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土内では島ごとの種分化はさほど見られない。例外はサンショウウオ類で、南西諸島には見られないが、本土の各地方での種分化が進んでおり、多くの種を産することで世界的にも知られている。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは日本を代表する両生類として世界的に知られている。 魚類日本の近海では魚類は種類、数共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島にかけては世界三大漁場の一つに数えられる。日本近海を暖流と寒流が流れ、これらの接点である潮境ではプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つことなどが好条件となっている。河川は大陸に比べて規模が小さいため淡水魚の種は多くはない。古代湖である琵琶湖などには多彩な種が棲息するものの、アユ等の食用に供される種の人為的放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。 昆虫昆虫は亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で、多様性に富む。国土に森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化とともに少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。 国民「日本人」、「日本の民族問題」、および「日本の外国人」も参照 「日本人」の歴史日本人の起源は、いわゆる縄文人を基層に弥生時代前後に北東アジアから移住した人々が融合した。日本人の起源そのものについては北方ユーラシア大陸にルーツを持つ人々が中心となって形成されたとの説が有力だが、詳細については諸説あり、定かではない。自称としては「和人」、あるいは近代的民族意識の下では「大和民族」「日本民族」とも言う。古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本民族とされる。南西諸島の人々は縄文時代から弥生時代にかけて九州から南下した人々が中心となっているとされ、本土の住民とルーツを同じくしているが、アイヌ民族の起源はいまだ明らかになっていない。 縄文晩期以降、ユーラシア大陸からの移住者が縄文時代からの土着の狩猟採集民と混血しながら倭人(和人)としての文化を形成していく。ヤマト王権の成立に伴い、和人としての文化的一体性が形成されていく。その後は蝦夷など朝廷の支配下に入るのが遅れた人々を同化しながら和人の文化圏は拡大を続け、平安時代までには本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島全域が和人の勢力圏に置かれる。ただし、渡島半島を除く北海道では、江戸時代当時の米が寒冷地に適さなかったこともあり、アイヌ等の狩猟民族の文化が明治時代まで保存されていた。現在、アイヌ語を第一母語とする日本人はいないが、アイヌ文化振興法が制定され郷土文化の保存と再興が図られている。ただし、北海道の狩猟民族はアイヌだけではなくウィルタ、オロッコ、ニヴフ(ギリヤーク)、ナナイなど多岐にわたる上、一口にアイヌ文化といっても地域差が大きかった。これは文字や統一国家を持たず、部族単位で分拠していたためである。 中世以降、北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地と総称する)に居住したアイヌ(ウタリ)及び、沖縄本島に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国については、それぞれ「北の日本」、「南の日本」とも称される。これらの地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯がある。ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方でそれぞれ大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。なおアイヌと共に南樺太にいたウィルタ、ニヴフの多くは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。また小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。 外国人と帰化現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍などが多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。韓国籍、朝鮮籍、及び台湾籍については、戦前の旧日本領の出身者及びその子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。さらに、韓国籍、朝鮮籍に関しては朝鮮戦争の戦火から逃れてやってきた者も多い。また近年の外国籍増加の背景には、1990年(平成2年)の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きく、さらに結婚の国際化などもある。 台湾・朝鮮出身者1895年(明治28年)に台湾を、1910年(明治43年)に朝鮮半島を併合後、太平洋戦争敗戦まで日本国の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、両地域からの出身者が多く、順次本土に移住してきた者も少なくない。また大戦中に軍人、軍属として、または労働者として志願または徴用され日本国内に来た者もいる。大戦終結後、彼らの多くは祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本国内に留まったり、いったん帰国した者のうちの一部が戦後の祖国の混乱(朝鮮戦争)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件)を逃れて日本に渡ったりした。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって、日本国籍を喪失したが、日本政府より特別永住許可を付与されたため在住し続ける者も多い。現在では日本生まれの人間が多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者が多い[8]。 言語「日本語」、「日本語の表記体系」、および「日本語の方言」も参照 学校教育で均質化された日本語が使用されている。固有のかな文字のほか漢字を用いる複雑な表記体系を持つ。存命中の世代は義務教育を受けており識字率は極めて高い。外国から帰化した者など一部を除き、ほぼ全ての日本人が日本語を母語としており、日本に定住する外国人も日本語を理解する場合が多い。 同時に、日本語以外の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除いて、日常会話では殆ど使用されず、高等教育の教授言語としても常用されない。そのため、日本語以外で日常会話をこなす日本人は多くない。
宗教詳細は「日本の宗教」を参照 現在の日本国民の大半は特定の宗教を信仰しているという自覚はない。歴史的には、「神道」と呼ばれるアニミズム的信仰と外来思想の仏教が広く信仰されてきた。神道と仏教は半ば融合した宗教組織の形(神仏習合)をとり、神道がアニミズム的側面や婚礼儀式を、仏教が理論的側面や葬式を担当するなど、分業的共存をしていた。明治時代の国家神道形成と神仏分離令によって、神道と仏教は別個の宗教組織の形をとるようになった。カトリックやプロテスタントなどのキリスト教徒もいるが、洗礼を受けた正式な信徒・教会員は総人口の1%を超えることはなく、教会組織も社会に強い影響力を持たない。しかしクリスマスなどのいくつかの儀式・祭礼は本来の宗教とは関係なくしばしば商業的なイベントとして多くの国民に受け容れられ、文学者や思想家などに見られるキリスト教徒文化人の社会的な影響も、必ずしも小さいわけではない。イスラム教徒やユダヤ教徒は、在日外国人を除けば数えるほどわずかしか存在しない。全体から見れば多くはないが、仏教系や神道系、あるいはキリスト教系を標榜する教団を主体にさまざまな新興宗教に所属するものもおり、カルト的な教団が社会問題になることもある。また、公立学校では憲法の政教分離規定により宗教教育を受ける機会はなく、大学でも宗教学部を置いているところは少数派である。そのため、国民の多くは自分自身の持つ宗教心や身についた宗教伝統に関して自覚的でないことが多い。正月の初詣に限れば神道は他の宗教には比肩しえない動員数を持つが(2006年(平成18年)の正月三が日の神社参拝者数はのべ9000万人)、これも現在ではクリスマス等と同列のイベント的側面の強いものとなっており、これを厳密な意味での宗教行為と考える学者は少ない。また神道の重要な神事である祭りは日本全国で、その土地ならではの特色で様々な時期に開催されるが、祭の主催者と参加者は共におおむね特定の氏子団体やボランティアで完結している例が多く、多くの一般住民にとっては外から観覧して楽しむものであり、儀式としての当事者的な参加意識は希薄である。 文化詳細は「日本の文化」を参照 日本の文化は、近隣地域の文化を取り入れつつ独自に発展してきた。人間の集団あるところに文化は存在する以上、島国である日本には縄文時代の頃から何らかの独自の文化があったのは想像に難くないが、文字を持たなかったため、それらを正確に知る術は存在しない。南方からの文化の伝搬も想定されるが、少なくとも表面的には大きな影響を残さない。その後4世紀頃から9世紀頃まで、大陸の文化が渡来人により伝わった。日本も遣隋使・遣唐使や留学生を派遣して積極的に中国の文化を取り入れた。大陸との往来が減った10世紀頃からは、これらの輸入された東アジア文化が日本特有の文化へと発展する。その後北宋との貿易により、禅宗が紹介され、喫茶の習慣が禅宗寺院に定着する。14世紀から16世紀の間、特に東山文化において、猿楽(後の能)や茶の湯(後の茶道)、枯山水などの庭園や書院造などの建築といった、現在「日本的」と考えられている「侘び・寂び」の文化が生み出された。その後、16世紀半ばからヨーロッパ文化がもたらされ、日本の文化に刺激を与えた。しかし後のキリスト教禁教や鎖国のため、ヨーロッパ文化の後世への影響は、喫煙の習慣などを除くと、地域的なものにとどまった。17世紀以降の江戸時代には、安定と鎖国による閉鎖された環境の中で、再び日本独自の文化が発展し、歌舞伎、浮世絵などの文化が大衆に広がった。
歌舞伎は江戸時代に誕生し発達した日本独特の演劇で、伝統芸能の一つである。
芸妓は舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性である。
この間、北ではアイヌの文化が独自の様相を見せている。また、旧琉球王国領域は言語的には日本語に極めて近いことから、基本的共通性は認められるものの、時に交流を持ちつつもおおむね独自の道を歩み、琉球王国を形成する。これらの詳細についてはそれぞれの項を参照。この状況は明治維新によって区切りが付く。 明治維新後、日本は西洋式の独立国家としての体裁を整えた。国策の一部として伝統文化は抑圧され、欧米の文化が急速に取り入れられた(廃仏毀釈、文明開化)。都市部では様々なものの欧米化が進み、庶民の生活に大きな影響を与えた。その一方で、日常生活では伝統的な生活習慣が根強く残り、特に地方では依然として伝統的な文化が維持されていた。地方の伝統文化が解体されるのは、戦後の高度経済成長以後である。大正期には経済の好景気などを受けて、アメリカ合衆国の大衆文化を取り入れたスポーツ、映画などの、享楽的な文化が流行した。しかし、1920年代以降、昭和に入ると陸軍の政策により、第二次世界大戦の戦時下で欧米風の文化は厳しく統制されていった。 1945年(昭和20年)に政府がポツダム宣言を受諾すると、連合国軍最高司令官総司令部のアメリカ軍が主導して日本の民主主義の復活強化を進め、それとともに日本の文化もアメリカ流の生活・文化を目標とするようになる。占領した連合国将兵の生活様式及び民間情報教育局 (CIE) の視聴覚教育によるアメリカ合衆国の公報映画を間近に観ることは、各地で文化的衝撃を与えた。それと同時に、日本古来の文化は軽視されるようになった。 高度経済成長期に至ると従来の生活習慣は大幅に変わっていき、伝統的な文化の多くが失われていった。一方で、日本人は自信をつけ、自国文化を再評価するようになる。例えば1970年(昭和45年)に行われた大阪万博の太陽の塔は、縄文芸術をモチーフにしたものとされている。また、大衆文化においてアニメや漫画といった新しく生み出された日本独自の表現方法も、日本から世界に向けて発信されている。これらの日本文化は摩擦を乗り越え、若い世代を中心に広がっている。 世界遺産詳細は「日本の世界遺産」を参照 日本国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された11件の文化遺産、3件の自然遺産がある。 祝祭日詳細は「国民の祝日」を参照
教育詳細は「日本の教育」を参照
スポーツ詳細は「日本のスポーツ」を参照 日本は伝統スポーツとして多数の武道を持つ。うち、一般に国技と認識されているのは相撲である(正式に国技として定められているスポーツは存在しない)。武道は柔道、剣道、空手、柔術、弓道、合気道、居合道など多岐にわたる。これらは世界に紹介され総合格闘技や軍などの格闘術の成立に大きな影響を与えた。 大衆スポーツとしては、19世紀後半にアメリカ合衆国から伝えられた野球が国民的スポーツとしての地位を得た。1934年には大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)が結成され、1936年には国内初のプロスポーツである日本職業野球連盟が発足した。以後、野球は国内最大のメジャースポーツとしての地位を確立した。その後は長らくプロ野球の一強時代が続いたが、1993年のJリーグ発足後はサッカーもメジャースポーツの1つとして認知されるようになった。 そのほかのギャンブルスポーツでは、競馬が比較的人気があり、日本の競馬を取り仕切る日本中央競馬会の売り上げは世界一であり、レースの平均的な賞金も非常に高い。詳しくは日本の競馬を参照。 メディア詳細は「日本の新聞」、「日本のテレビジョン放送局」をそれぞれ参照 読売新聞、朝日新聞、毎日新聞が三大紙である。日本経済新聞は経済紙であるため、一般紙に比べて株価欄を始めとした経済関連の記事の比重が高い。さらにこの四紙に産経新聞を加えた5紙が全国紙である。 テレビ放送では国営放送は存在せず、公共放送に準ずる日本放送協会 (NHK) および多数の民間放送により放送メディアが成り立っている。これらは主に電波法、放送法などにより律せられている。衛星放送は官民が協力し、複数の放送衛星を利用している。ケーブルテレビの普及度は、衛星放送の普及度に比べると低い。 日本は立地上、プレートや火山が点在しており、大昔から数多くの災害と付き合ってきた。その結果、自然災害を未然に防ぐために緊急警報放送を普及させている。特に地震の報道においては津波情報などの速報体制が敷かれている。これらの災害時の放送は緊急度を時々見直すなどされている。 報道の自由戦後の日本では憲法により表現の自由が保障されており、報道内容に関する政府の介入は建前上、無いことになっている。 が、実際は、テレビ放送については政府が発行する免許が必要であり、かつNHKの予算は国会の承認が必要である。一方で、新聞については、再販制度を継続するかどうかにおいて、大手新聞社は常に政府に生殺与奪を握られている状態であり、様々な形で事実上の介入が行われている。一方でテレビ・新聞の側においても、記者クラブ制度によって、大手放送局・出版社・新聞社などの一部の大マスコミのみが政府からの情報を独占出来、メリットを享受しているため、進んで政府批判を行うことは少ないとされる。 また、収入源の広告料収入を大企業に頼っている大手マスコミは、大企業が社会問題を起こしたとしても、批判する内容を報道することが少ないと言われることもある。 一方で、報道機関や出版界などは、無用な反発や軋轢を避けるため、放送禁止用語や出版禁止用語を定めて差別的あるいは下品な表現を禁止したり、報道内容を「自粛」したり「自主規制」したりすることが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など、報道により人命に関わる場合などについては、自主規制または規制の対象になっている。 なお、近年発生した、報道機関を狙ったテロとしては赤報隊事件があるが、未だ解決には至っていない。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングにおいて、日本は37位(2007年(平成19年))である。これは先進国としては決して高い順位であるとはいえないが、国境なき記者団では、その根拠として前述の記者クラブの存在を挙げている。 食文化詳細は「日本料理」、「和菓子」、「日本の郷土料理」をそれぞれ参照
伝統的な日本料理
現在は食料自給率は低いが、豊かな漁場と肥沃な農地に恵まれ、良質な食材が入手可能である。良質で豊富な飲料水にも恵まれている。伝統的な和食以外にも世界中の食文化を取り入れており、食文化の面では世界で最も豊かな地域の一つといえる。 日本人は主食と副食(おかず)の区分の意識が強く、両者を別々に容器に盛った上で同時に食べるのが一般的である。それによって各人のペースで主食と複数の副食の割合を調整する事ができるのである。もっとも代表的な主食は米を炊いた飯である(麦や雑穀を混ぜる場合がある)。またパンや麺類も大きな地位を占めている。芋はかつては救荒食として重要な地位にあったが、現在では主食の扱いを受けることはほとんどない。小麦・トウモロコシおよび豆類は大半を海外から輸入しており、これが食糧自給率を低くする大きな要因となっている。主要作物のうち米のみほぼ国内で自給している。 副食は主食と飲み物(汁物)を除いた料理の総称である。出汁(だし)と呼ばれる旨味を重視した味付け文化を持つ。 日本は四方を海に囲まれているため、漁業が特に盛んである。利用する海産物は実に多く、世界で最も漁業に関心が深い民族の一つといってよい。コンブなどの海藻も日本料理で重要な地位を占めている。さらに、タコやナマコ、ホヤなど世界的に珍しい物を含め多様な海産動物を食する。調理法も多種多様であり、寿司・刺身による生食など独自の文化を持っている。 平地の少ない日本は牧草地に恵まれず、殺生を忌む仏教の影響から家畜の肉を食べる習慣がなかった(野生動物や鳥類の肉食は時々行われた)。しかし、海外の食文化流入に伴い、肉食は完全に一般化した。現在乳製品、鶏卵、鶏肉は比較的充実しているが牛肉、豚肉は輸入が過半を占めて[110]おり、国産肉は主に産地ブランドなど高級品を志向している。飼料の大半は輸入に依存している。 野菜は伝統的に人糞を利用して栽培されてきたため生食の文化がなかったが、戦後は清潔な野菜が供給されるようになり、サラダなどの生食文化も一般化した。海外からの輸入も増えているが、農薬が残留した野菜が少なからず輸入されており、問題になりがちである。 嗜好品は伝統的に緑茶や和菓子が親しまれてきた。現在は世界中の茶飲料が飲まれるようになり、コーヒーやココアなど多種多様なソフトドリンクが日常的に飲まれ、洋菓子も広く親しまれている。菓子類や清涼飲料水は街角の自動販売機や商店(コンビニなど)で迅速かつ簡単に購入できる。また喫茶店が広く営業されている。 酒類では、伝統的に米を原料とする日本酒と、米や芋、麦などの多様な作物を原料とする焼酎が飲まれてきた。現在ではビールやワイン、ウイスキーなどが一般化しているほか世界中の酒類を購入できる。ただし酒税法の規定により、無許可で酒類を製造する事が禁止されており、自家消費のためであってもどぶろくなどを作ることは違法行為である。 加工食品や冷凍食品産業、外食産業が非常に発達している。外食産業は伝統的な和食(たとえば蕎麦、うどん、寿司などのファーストフード)以外に日本人の好みに変化した洋食や中華料理の食堂がよく見られた。1970年代以降は北米のファーストフードなどが普及したほか、アジアやヨーロッパなどの各種食文化が流入した。特に日本が強い経済力を持つようになった1980年代以降はグルメ志向が高まり、食文化の流入が加速した。また持ち帰り惣菜・弁当などの中食産業が発達している。 携帯食として伝統的に握り飯や箱に料理を詰めた弁当が利用されてきた。現在ではパンやビスケット類、インスタント食品など多種多様な食品が利用されている。 脚注
参考文献谷岡一郎、仁田道夫、岩井紀子『日本人の意識と行動』東京大学出版会 ISBN 978-4-13-056101-3 関連項目外部リンク政府 観光
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