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ヤマト王権(やまとおうけん)とは、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。大和朝廷(やまとちょうてい)とも呼ばれ、この呼称が広く認知されているが、近年は「ヤマト王権」「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」などへの語の転換が進んでいる(詳細は「名称について」の節を参照)。 ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力の存在を重視すべきとの見解がある。また、かつて広く用いられてきた「大和朝廷」の語は現在でも小学校・中学校の学習指導要領で用いられているが、名称をめぐっては「大和」の表記や「朝廷」の定義と成立時期をめぐって学界のなかでも見解が分かれている。
名称について1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の名称が用いられていた。しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定や年輪年代測定の方法が確立し、その精度が向上したこともあいまって古墳の編年研究がいちじるく進捗し、「大和時代」という時代を設定することは必ずしも適切ではないと考えられるようになり、かわって「古墳時代」の名称が一般的となった[1]。 古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」、あるいは東アジア世界とのかかわりを重視して「倭国政権」、「倭王権」等さまざまな表記がなされるようになっている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。 「大和」をめぐって「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』では「大和」の漢字表記はなされておらず、8世紀中ごろに施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、少なくとも初期の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある[2]。 「大和(ヤマト)」はまた、 の広狭三様の意味をもっており[3]、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。 白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違している[4]ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている[5]。すなわち、白石によれば、1.~3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。 いっぽう関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている[6]。 「朝廷」をめぐって「朝廷」も参照 「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[6]、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している[7]。 「国家」「政権」「王権」「朝廷」関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している[6]。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例[8]があり、混乱もあることを指摘している[6]。 用語「ヤマト王権」について古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している[9]。 山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている[10]。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している[11]。 また、山尾によれば、
という時代区分をおこなっている[10]。 この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない[9]。 王権の成立小国の分立弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと考えられる高地性集落が多くつくられ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争の激しかったことを物語る。 墓制の面でみても、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態が異なり、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現することから、各地に有力な首長があらわれたものと考えられる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。 邪馬台国連合と纒向遺跡『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼があらわれ、国ぐに(ここで云う国とは、中国語の国邑、すなわち囲われた町のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱はおさまって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、「親魏倭王」印を授与したことを記している。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人がおかれるなど、統治組織もある程度ととのっていたことがわかる。 邪馬台国の所在地については近畿説と九州説があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州におよぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州説を採用すれば北部九州一帯の地域連合ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。 編年研究の進んだこんにちでは、古墳の成立時期は3世紀にさかのぼるとされているため、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「ヤマト王権」につながる可能性が高くなったとの指摘がある。 たとえば、白石太一郎は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との合体にともなう版図の拡大を契機にして大きく革新された。この革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている[12]。 その根拠となるのが奈良県の纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されることが多い[13]。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で認められ、巨大な運河などの大土木工事もおこなわれていた一種の政治都市で、祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されており、また、規模の点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよび、7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、多賀城跡の規模をうわまわる[14]。 纒向石塚古墳など、この地にみられる帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称することもある)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかにしのぐ規模をもち、また、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しており、これは政治的結合の飛躍的な進展を物語っている。そうしたなかで、白石太一郎は、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、その政治的結合のなかで重要な位置を占めていたことを指摘している[15]。 『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死ののちは男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女臺与が王となって再びおさまったことが記されている。こののち、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、248年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって臺与を諭した、としている。 また、『日本書紀』の神功紀にも引用されている『晋書』起居註には、266年(秦始2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽におもむいて朝貢したとの記述がある。この女王は臺与と考えられ、そうすると『日本書紀』としては臺与を神功皇后に見立てていることになる。 ヤマト「王権」の成立「前方後円墳体制」も参照 ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である[16]。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。 3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。
箸墓古墳(北西方向から)
こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。 出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良県南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある[17]。 「王位」「王権」「王統」山尾幸久は、「3世紀後半の近畿枢要部に『王位』が創設された公算は大きいが、これを『王権』と呼べるかどうか。まして既に『王統』が実在したのかどうかは今後の研究に委ねられている」[9]と説明しており、「ヤマト王権」の用語の使用について慎重な立場を示している。山尾自身は「王権の確立は雄略の時代、王統の確立は欽明の時代には認められる」との見解[9]を示しているので、このような観点も含めた体系的な国家形成史の研究が求められる。 「ヤマト王権」と邪馬台国の関係吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代Ⅰ』のなかで、「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている[18]。 吉村は、「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する[18]。 前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(現崇神陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である[18]。上述の山尾の指摘とあわせ、今後検討していくべき課題といえる。 九州王朝説紀元前後から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、日本列島を代表する政権は一貫して九州地方にあり、大和の政権は一地方政権に過ぎなかったとする九州王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料の存在から、こんにちでは力を失っている(→九州王朝説参照)。 王権の展開前方後円墳体制(古墳時代前期前半)文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方中部や九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。 古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的なリーダーであったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神をまつる司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。 ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている[15]。 七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。『日本書紀』にも干支二順120年を繰り下げれば、同じ369年に百済と結んで新羅(346年に辰韓の地に建国された国)と交戦し、伽耶諸国(もと弁韓の地域)を支配したという記述がある。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。 いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、「倭鉄」(倭で精練された素材鉄)や勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭人が集団的に移住したことがわかる。 いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる。同碑文では391年に倭が渡海して百済・新羅を臣民としたことも記されており、この一連のできごとは、鉄や文物の供与をうけていた倭国が伽耶や百済の要請で朝鮮半島に出兵し、軍事援助したものと考えられ、このことは、朝鮮半島最古の正史である『三国史記』にも、397年に 百済王が王子の腆支を人質として倭に差し出したという記事、405年には腆支が倭国の護衛により海中の島に待機してのちに百済王として即位したという記事があることなどからもうかがわれる。 この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動はヤマトの王権の求心性を強めたであろうと推測できる。 巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 しかし、ヤマト王権における首長の武人的性格が強まったことは確かに言えるものの、江上波夫の唱えた「倭韓連合王国」については、その存在を明証する資料が皆無であり、また、3世紀のヤマトを起源とする前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見あたらず、逆に日本でも首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろきわめて強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長486メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている[19]。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり[20]、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる(→王朝交替説参照)。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である[21]。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地に独自の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。 ワカタケルの政権(古墳時代中期後半)475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。 さらに、銘文には「治天下…大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。 上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。 いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質した[22]ことは、考古資料の面からも指摘できる。 なお、平野邦雄は平凡社『世界大百科事典』(1988年版)の項目「大和朝廷」のなかで、「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。 転換期そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から6世紀前半にかけて王統が弱体化し、数回断絶したとの説も有力である(王朝交替説)。中国王朝との通交も途絶した。5世紀後半の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動したが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的な影響を与えた。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらした。そのためヤマト(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされる。 また5世紀末から6世紀初めにかけて、それまで首長墓を造営してきた古墳群の多くが衰退し、新興の古墳群が出現していることから、ワカタケル大王の王権強化策は成功したが、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したとの説もある[23]。 そうした中で6世紀前期に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一した。オホド王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなった。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解がある。 確立期
7世紀のヤマト王権(大和朝廷)の勢力図[24]
その後ヤマト王権は対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮半島から暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。また、王族や有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で6世紀末、幾つかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らは強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これによりヤマト王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていくこととなる。 王号詳細は「大王 (ヤマト王権)」を参照 ヤマト王権の王は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている[25]。 大和朝廷概略大和朝廷(やまとちょうてい)とは、
この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。 本節では、1.について述べる。現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている[26]。 大和朝廷の淵源大和朝廷の淵源は、『日本書紀』や『古事記』に記された天地開闢ののちに造化三神などの諸神が生まれたとする神話にさかのぼる。諸神のなかの神世七代の最後に生まれたイザナギとイザナミによって「国産み」がなされて淡路島や本州・九州・四国などの国土、「神産み」によって石・木・海・水・風・山・野・火など森羅万象の神が生まれた。記紀では、イザナギが黄泉国のケガレを落とすために禊を行うと諸神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が生まれ、イザナギは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を任せたとされている。 神代記紀によれば、皇室の祖神は太陽神であるアマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神)であり、その子オシホミミ(天忍穂耳尊)とタクハタチヂヒメ(萬幡豊秋津師比売命、タカミムスビの娘)の間の子である天孫ニニギ(瓊瓊杵尊)が、アマテラスの命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたった。これが天孫降臨である。降臨の地は、『古事記』では「竺紫の日向の高穂の久士布流多気」、『日本書紀』では「日向襲之高千穗峯」「筑紫日向高千穗」とされる。 ニニギは、オオヤマツミ(大山祇神)の娘であるコノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)を娶り、ホデリ(火照命)・ホスセリ(火須勢理命)・ホオリ(火遠理命)を生んだ。ホデリは海彦、ホオリは山彦の名でも知られ、「山幸彦と海幸彦」の説話は有名である。 ホオリは稲穂の神、穀物神としても知られ、トヨタマヒメ(豊玉毘売神)を娶り、トヨタマヒメは海中で懐妊してウガヤフキアエズ(鵜茅不合葺命、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)を産む。トヨタマヒメは妹のタマヨリビメをホオリに遣わし、ウガヤフキアエズは育ての親にあたるタマヨリビメと結婚して、イツセ(五瀬命)・イナヒ(稲氷命)・ミケヌ(御毛沼命)・ワカミケヌ(若御毛沼命)の子をもうけた。ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。 神武東征ウガヤフキアエズ末子のワカミケヌは、カムヤマトイハレビコノスメラミコト(神日本磐余彦尊)として日向国の高千穂宮にあったが、甲寅の歳、イハレビコ45歳のときに物部氏の祖神にあたるニギハヤヒノミコト(饒速日命)が東方に天下ったという話を聞いた。「東方に美しい国がある」と考えたイハレビコは、兄たちに東へ遷ろうとすすめて東征を開始し、九州北部の宇佐宮、岡田宮を経て、安芸国の多祀理宮、備前国の高嶋宮に着いた。高嶋宮では、土地の国つ神であるシイツネヒコ(椎根津彦)に出会い、かれを道案内にして東征を継続した。シイツネヒコは、倭国造の祖先とされている。大阪湾から難波にはいったイハレビコは、宿敵ナガスネヒコ(長髄彦)[27]を倒して、辛酉の歳、大和国橿原宮にて初代天皇神武天皇として即位した。これが神武東征の説話である。神武天皇は別名「ハツクニシラススメラミコト」とも称する。『古事記』『日本書紀』では大和朝廷の始まりと皇室の起源をここに求めている。なお、この記事以前を『日本書紀』では「神代」、神武即位以後を「人代」として扱っている。 皇統譜初代神武天皇のあとは、
とつづく。なお、2代綏靖から9代開化までは欠史八代と称されることがある。 10代崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリビコイニエノスメラノミコト」であり、また「ハツクニシラススメラミコト」とも称して「初めて天下を治めた天皇」の意を有することから、実在の天皇として扱われることが多い。崇神天皇の墓とみなされているのが、奈良県天理市柳本町に所在する4世紀前半の行燈山古墳である。 以後、
とつづく。 16代仁徳天皇は『日本書紀』では「聖帝」と記し、河内平野の開拓にいそしみ、人家の竈から炊煙が立ち上がらないことを知って租税を免除するなど仁政を施した逸話で知られる。大阪府堺市大仙町にある大仙陵古墳は、仁徳天皇の陵墓に比定されており、王墓としては世界最大規模をほこり、畿内を本拠とした強大な王権の存在を物語る。 21代雄略天皇は倭の五王の最後「倭王武」として『宋書』倭国伝に現れ、そこに引用された「倭王武の上表文」は畿内の勢力によって日本列島全体の統合が進んだことを物語っている。埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘には「ワカタケル」の名がみられ、これは『日本書紀』や『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致している。また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)としてそれぞれ仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。ここに朝廷の内実が整えられていったことがうかがわれる[28]。 26代継体天皇(オオドノスメラミコト)は『日本書紀』に「応神五世孫」と記され、近江国高島で生まれたが、母の故郷越前国高向で育ち、大伴金村らの推挙によって即位した天皇である。ここに皇統の断絶があったという見解となかったという見解が分かれる(詳細は王朝交替説を参照のこと)。 以後、
とつづき、推古天皇(トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト)は『日本書紀』の年代観では、第33代目となる。 著名な逸話『日本書紀』で扱う「人代」は、神武天皇から持統天皇までの各天皇の時代であり、それぞれの天皇の代ごとに編年体で叙述されているが、第15代応神天皇の前に「巻第九」として神功皇后紀を設けている。神功皇后は「熊襲征伐」や「三韓征伐」の説話で知られるが、それ以外にも大和朝廷時代の説話には、崇神天皇紀における大物主大神を祀った逸話や四道将軍派遣の話、垂仁天皇紀の相撲のはじまり、景行天皇紀の土蜘蛛退治の話やヤマトタケル(倭建命)の英雄譚など著名な逸話が多い。 ことに『古事記』に収載されたヤマトタケルの
の歌は古来よく知られており、また、かれは死して白鳥になったという美しい伝説がある。 現代につながる遺産皇紀と建国記念の日神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。 また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)年2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。 紀元節は太平洋戦争終結後「建国記念の日」と改称された。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、こんにちに至っている[29]。 神宝と皇室行事大和朝廷が伝えてきた神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際にアマテラスから授けられたとする鏡(八咫鏡)、玉(八尺瓊勾玉)、剣(天叢雲剣)を指す。 大和時代に起源をもち、こんにちまで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令ではじめて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある[30]。 主な神社の起源大和朝廷の時代にさかのぼる神社として「記紀」に記される主な神社は、次のとおりである[30]。
補説中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合がある。たとえば、 など。 略系図脚注
関連項目出典・参考文献出典
参考文献
外部リンクQuestions for article: ヤマト王権 冠???二階 飛鳥時代, ヤマト王権 北?州 ?? |
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